玻璃の器
 

「父上!」
 三条邸に戻った馨君は、牛車から転がるように降りて寝殿へ駆け込んだ。参内の準備をしていた兼長は、お前も共に参内しなさいと言ってから冠を正した。
「以前から退位のご意向は示しておられたが、大臣方が内裏におらぬ夜になって知らせが来るとは…主上のご容態に異変があったのやもしれぬ」
「父上、ご存じだったのですか」
「お前こそ知っていたのだな。ご退位のことはお前にとっては寝耳に水だったろう。すまなんだな、言えぬままで。後は牛車で話そう。来なさい」
 女房が馨君に新しい扇と懐紙を渡すと、馨君はそれを懐に入れて兼長の後について歩いた。出かけに女房に東一条へも使いを出すようにと馨君が言うと、兼長はすでに知らせていると付け加えて牛車に乗り込んだ。
「父上、主上は…」
「藤壺さまの中宮立后より、主上はご退位のご意向を固めておられて、昨日の朝議ではっきりと口になされたのだ。これから今帝より黄櫨染御袍の譲渡がなされて後、惟彰さまの践祚の儀(せんそのぎ)が行われる。後に即位の儀(そくいのぎ)と続き、退位なされた今帝は内裏を退かれることになる。藤壺さまがどうなされるのかはまだ分からぬが…多くの女御や更衣は今帝と共に内裏を下がられるだろうな」
「それでは佐保宮さまは!?」
 馨君が身を乗り出して尋ねると、兼長はううむと呻いて腕を組んだ。
「できれば佐保宮さまに我が姫を差し上げてから内裏へお戻りいただきたかったが…それもいたしかたあるまい」
「では、佐保宮さまは東宮に」
「間違いなかろう。佐保宮さまは誰も娶っておられぬ。こうなれば、それがかえって幸いしたな。下手にどなたかの姫を娶られておれば、他の公卿によって対抗の皇子が担ぎ出されておったやもしれぬ。権大納言の姫など娶られてご寵愛されていた日にゃ、わしとて佐保宮さま以外の皇子を何とか東宮にと考えねばならぬ所だ。惟彰さまに皇子はおられず、主立った女御にも皇子は生まれなんだ。今や佐保宮さまは藤壺さまの二の宮であられるし、前左大臣入道どのや右大臣どの、権大納言からも平等に目をかけられておられる。今、佐保宮さまを差し置いて東宮となられるような度胸の据わった宮さまはおらんだろう」
「…本当に」
 腰が抜けたように肩を落として、馨君は呆然と兼長を見つめた。こんな早くに…水良はまだ心を鎮めていないというのに。せめて本当に白梅院さまの皇子だという確証がつかめれば、水良も自らの出自について悩まずに済むのに。
「父上、私は」
「うむ。大内へついたらお前は梨壺へ行き、惟彰さまのお世話をして差し上げなさい。近衛少将としての役割もある。近衛府へ寄り、すでに知らせを受けているか大将に確認してから梨壺へ向かえ」
「佐保宮さまは」
「ああ、そうか…そうだな。次代東宮の佐保宮さまを一人にはしておけぬな。すでに東一条邸へは牛車を差し向けてあるから、お前は陽明門で、従者を待賢門に待たせ、どちらかで佐保宮さまとおちあい梨壺へお連れするのだ。近衛府にはわしから知らせを出そう」
「はい」
 緊張で紙のように白い顔色をしたまま、馨君は答えた。陽明門で牛車から降りると、従者に待賢門で三条邸の牛車を見たらこちらへ連れてくるようにと言いつけた。陽明門の前はあわてて参内してきた殿上人でごった返していて、見失わないようにしなければと目を凝らして馨君は三条邸の牛車を探した。
「馨君さま!」
 ふいに聞き知った声が聞こえて、水良の従者をしている男が手を振っているのが見えた。馨君が駆け寄ると、混み合う牛車の外側で牛飼い童が榻を出している所だった。そのような離れた場所で、二の宮さまを降ろすな! 牛飼い童を叱責して馨君が牛車を覗き込むと、ふいに中から腕が伸びて、馨君の体を牛車に引き入れた。
「水良」
 馨君が驚いて水良を見上げると、大君姿の水良が青ざめたままギュッと馨君を抱きしめた。そのまま覆いかぶさるように馨君を抱きすくめると、水良は目を固く閉じて馨君…と呟いた。その体を抱きしめる腕は小刻みに震えていた。馨君がしっかりと水良を抱き返すと、水良は馨君がつけていた老懸に頬を突かれながらそれを手で押しのけ、馨君の柔らかな頬に口づけた。
 馨君。かすれた声が、耳に届く。
「大丈夫だ…大丈夫だから、水良」
「俺はどうしたらいいんだ。誰の子とも分からぬまま東宮になどなれぬ」
「水良、主上がお決めになられたことだ。安心して従おう…大丈夫だから。お前は主上の血を継ぐ者だ、水良」
 何度も名を呼んで、馨君は水良の体を強く抱きかかえた。黙ったままジッとその声を聞いていた水良は、ふいに身を起こして真っ直ぐに馨君を見つめた。瞳を揺らして馨君の表情を見つめると、水良はもう一度馨君を抱きしめ、それから手を離した。
「信じよう。お前を信じる。馨君…そばにいてくれ」
「もちろんだ。お前が嫌だって言っても離れないぞ」
 馨君が答えると、水良はようやく強張ったままわずかに口元に笑みを浮かべた。牛車を何とかして門のそばへ寄せろ。馨君が牛飼い童に言いつけると、従者が殿上人たちの牛車を脇に寄せるよう指示して三条邸の牛車を陽明門のそばまで引き入れた。
「佐保宮さま…お気を確かにお持ち下さいませ。これから梨壺へお連れいたします」
 牛車から降りようとした水良に、馨君が声をかけた。ありがとう。振り向いて今度は自然に笑うと、水良は先に榻を踏んで牛車を降りた。

 
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