玻璃の器
 

 そう何度も休む訳にもいかず、きちんと出仕して仕事をし、退出してから随身を伴って馨君が二条の方の元へ出向いたのは日も暮れた頃のことだった。
 久しぶりに会った二条の方は、以前よりも少し年を取って顔色がよくなかった。今日も臥せっていたのだが馨君のためにきちんと身繕いをしていて、気をつけて見なければ体調不良だとは分からないほどだった。
「遅くなりまして申し訳ございません、おばあさま。文ではお体の具合が優れぬとのことでしたが、お加減はいかがでございますか」
 悠然と座る二条の方に、馨君は御簾を上げた廂から丁寧に頭を下げて挨拶をした。しばらく見ないうちに立派な挨拶ができるようになったこと。縹色の尼衣に身を包んだ二条の方が微笑むと、馨君は心配そうに尋ねた。
「父上も心配して、おばあさまの様子を見てきてほしいと仰っておいででした。こちらでも手に入るので無用かとも思いましたが、人参など精のつく物をお持ちしましたので、どうぞ召し上がって下さい」
「ありがとう。でも、大したことはないのよ。兼長にもよろしく言ってちょうだい」
「あ、梨壺さまからも文を預かりました。慌てて書いたので恥ずかしいような手で申し訳ないと仰っておいででしたが」
 懐から薄紅色の文を取り出すと、馨君はそれを女房に渡した。二条の方はそれを受けとって広げ、素早く視線を走らせた。まあ…と呟いてホホホと笑うと、二条の方は文を膝の上に乗せて目を細めた。
「お見舞いの言葉も書いてはあるけれど、ほとんどがあなたへの愚痴ですよ、一の君」
「え、本当ですか? どうして」
「兄上を評して、白花の咲き乱れたる壺庭に、ひとり遅れて咲き残るべし(今、梨壺には白い梨の花が満開なのに、きっとひとつだけ遅れて咲き残る花なのだろう)…ですって。あなた、不義理をしているのではなくて?」
「…少し」
「佐保宮さまのお噂は、都より外れたこちらへも届いておりますわ」
 二条の方の言葉に馨君がドキッとして顔を上げると、二条の方は文を折り畳んで言葉を続けた。
「藤壺さまが佐保宮さまの妃をこれまでになく熱心に探しておられるので、ひょっとしてもうすぐ代替わりがあるのではと、この辺りに住む者までが噂し合っています。どこから出た噂かも分かりませんが、恐らく主上の快癒を願って読経をする僧正の声でも聞こえたのでしょう。佐保宮さまも大事かもしれませんが、次の主上は惟彰さま。一の君、そのことを忘れてはなりません」
「…はい」
「できるだけ梨壺へ顔をお出しなさい。近衛少将としての立場もございますよ」
「はい、おばあさま」
「私には素直だこと」
 言われたことはいちいち尤もでうなだれた馨君に、二条の方は思わず笑った。おばあさまには負けます。馨君がすまして言うと、二条の方はふふっと笑ってから馨君を見つめた。
「いつまでも子供のままでいてほしかったけれど、そうも言ってられませんわね、一の君。あなたが生まれた時、どんなに嬉しかったか…大きくなられるにつれその思いは増々強くなります。私がどんなにあなたを誇らしく思っているか、見せられるのなら目の前に広げて見せてあげたいほどですよ」
「おばあさま…」
「あなたはおじいさまの血を最も濃く受け継ぐ直系の君ですからね。春宮さまは主上の子、私には手の届かない所へおいでだし…」
「あの…おばあさまも藤壺さまがご入内遊ばされた折、共に内裏へ上がられたのでしょう?」
 馨君が軽く身を乗り出して尋ねると、二条の方は視線を上げて頷いた。
「ええ、少しの間だけれど。私には北の政所としての役目もありましたからね」
「前麗景殿さまのことはご存じでしたか。お目通りは」
「かの方がまだ幼い頃、何度かお顔を拝見したわ。それはもうたおやかで気品のある姫宮で、藤壺さまのように艶やかな美しさではないけれど、いつまでも見ていたいような白百合のような方でしたよ」
「そうですか…」
 呟いて視線を伏せると、馨君は懐から扇を出してパチリと鳴らした。そばにいた尼女房たちが、顔を見合わせてから静かに下がって行った。あらあら、内緒話なのね。目を細めて二条の方が馨君を見ると、馨君は頷いて扇をいじりながら尋ねた。
「前麗景殿さまがご入内遊ばされる前、思い人がいたという噂を聞いたことはありませんか」
 馨君の言葉に、二条の方はサッと顔色を変えて馨君を見つめた。滅多なことを口にするものではありません。二条の方が厳しい口調で咎めると、馨君は眉を寄せて口を開いた。
「分かっています。けれど、どうしても知らねばならぬことなのです。おばあさまだからこそ、直接聞けること…私とて、他でこんなバカなことを口にするつもりはありません」
「何があったというの」
 二条の方が呟くと、馨君は俯いて、それはお教えできませんがと答えた。しばらく二人黙り込んで互いの気配を探り合い、それから二条の方は尼衣の袖を払って背筋を正した。
「私はそのような噂は耳にしたことはありません。女五の宮さまは私とは親子ほども年の離れた異母妹の宮で、私とはあまり行き来もありませんでしたから。ただ…」
「ただ?」
「そうね、白梅院さまからは大層可愛がられておいでで、何でも女五の宮さまは控えめなお人柄ながらも雅びなことには長けていらっしゃって、歌も楽も、絵もお上手であられたそうですわ。女五の宮さまがまだ裳着も済ませていらっしゃらなかった頃、皇太后さまの無聊の慰めにと白梅院さまのご意向で内裏へ上がられ、それはもう見事な琴の音を奏でられたとか」
「内裏へ? 前麗景殿さまが?」
「ええ。確か…春頃に入られて、秋頃には皇太后さまの具合もよくなられたので、桃園の宮へ戻られたと聞きました」
「…そうですか」
 子供の頃の話なら、関係ないのかな。しかし、やはり白梅院さまは前麗景殿さまを愛でていらっしゃったんだな…。不安で視線を膝に落として、馨君がため息をついた。水良は白梅院さまの皇子なのでは。このようなこと口にしたら、俺だけではなく父上にまで累が及んでしまう。
「二条さま」
 そっと妻戸を開けて、二条の方の側近の尼女房が声をかけた。どうしたの。二条の方が問いかけると、尼女房は青ざめた顔で二条の方ににじり寄り、その耳元に囁いた。
「…本当なの」
「先程、三条邸より使いが参りまして」
「分かりました」
 二条の方が頷くと、尼女房は馨君に丁寧に頭を下げてからまた妻戸から出て行った。どうかされたのか。緊張した面持ちで馨君が二条の方を見ると、二条の方は眉を寄せて声を潜めた。
「兼長より使いが参りました。あなたはすぐに三条邸へ戻りなさい。主上が退位なされます」
「主上が!?」
 馨君が思わず腰を浮かすと、二条の方は頷いて早く行きなさいときっぱり言い放った。青ざめて馨君が立ち上がると、案内の尼女房が現れて、お車を回しますのでと馨君を先導した。

 
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