次の日、栄からの文で三の姫が急に行儀見習いのためという名目で宣耀殿のいる西の対へ移ったことを知った伴右大弁は、あまりのおかしさに笑いを堪えながら、以前から約束していた蛍宮家へ牛車で向かっていた。
涼しげな顔をしながらも、慌てふためいていたのだな。
栄は三の姫のお付きを外され、右大弁を栄の局に導いた一番年嵩の女房だけが三の姫について西の対へ移ったと文には書いてあった。その女房にはすでに右大弁さまのことを話してあります。いずれ三の姫さまの元へ通われるのなら、目通りをさせましょう。栄からの文にはつらつらとそう書かれていて、右大弁は牛車の壁にもたれて目を細めた。
抜け目のない女だ。
手放したのは間違いだったかな。いや、まだ俺の手中にある女だ。牛車がゆるりと止まって、牛飼い童が蛍宮邸でございますと右大弁に声をかけた。
初めて訪れる蛍宮邸だったが、椿の宮は一回りも年の離れた右大弁にも気後れすることなく私室へ迎え入れた。父上は今宵、琵琶をつまびきに兵部卿宮邸を訪れているのです。椿の宮は琵琶の調弦をしながら機嫌がよさそうに言った。
「蛍宮さまの琵琶は何度か内裏で伺ったことがあるが、椿の宮さまの琵琶は初めて耳にしますな」
「私は琵琶は少し不得手で…兄上には、調子笛なしに弦を張るお前が不得手などと、と叱られているのですが、まだまだ父上には適いませぬゆえ」
「父宮さまは楽聖とも呼ばれるほどのお方、まだまだお若いあなたさまがそれ以上の弾き手になられれば父宮さまのお立場もありますまい。それにしても、つくづく皆、楽の才に恵まれておいででございますな。時の大輔どのも笛がお上手だが…私など無骨な手では笛の穴を塞ぐにも難儀します」
「高野の坊さまにも、ゴツゴツとした手で笛を巧みに奏でられる方はおりますよ。上手になるには常に笛を手にして毎晩吹かれることです」
調弦を終えて軽く琵琶をつまびくと、椿の宮は目を伏せてから視線を上げた。そう言えば。琵琶を抱えたまま右大弁を見上げると、椿の宮は弦を戯れに弾きながら尋ねた。
「右大弁どのは弾正宮どのと親しくしておいででございますね。弾正宮どのも父上から笛の手ほどきを受けたのでしょうか」
「蛍宮さまは、頼ってくる者にはどなたにも手ほどきをされますからな。鷹揚なお心を持っておられるゆえ。でも、弾正宮どのが蛍宮さまから笛の手ほどきを受けたとは初耳ですな」
「そうですか。確かに、父上の手ほどきを受けた者の笛の音と思うたが」
また視線を伏せて撥を持つと、バランと琵琶を弾いてから椿の宮はあの夜の笛の音を思い出してふむと呟いた。どこでそれをお聞きになられたのです? 右大弁が尋ねると、椿の宮は抱えていた琵琶を少し膝に乗せて右大弁を見上げた。
「あの宴の夜に、庭をそぞろ歩いていたら聞こえてきたので。女君が柾目と呼んでおられたので、弾正宮どのかと思うたが、格子戸が下がっていたので姿を見た訳ではないし、人違いかもしれませぬ」
「なんと、東北の対までおいでになられましたか。あそこの庭はいかがでしたか」
「東北? 一の姫の対は西でございましょう」
目を伏せて琵琶を弾きながら、椿の宮が呟いた。それきりもう興味がなくなったのか、琵琶に夢中になっていく椿宮の横顔を見て、右大弁は悟られないように息を飲んだ。西の対。そこで柾目の名を聞いたというのか。
もやりと胸の内に重い霧のようなものが立ちこめた。一の姫との縁談は、行忠さまのご身分に負けての政略結婚と思っていたが…西の方との密通なれば、柾目自身の意志がなければ叶うまい。右大弁はギリッと奥歯を噛みしめた。それすら、この世を儚むがゆえの単なる遊びと言うのだろうか。東宮妃との逢瀬とは…命を賭けた遊びだとでも言うのか。
琵琶の音に耳を傾けると、右大弁は次第に冷えていく心を体中に感じながら目を閉じた。
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