玻璃の器
 

「こないだの宴の時は、早くに引き上げたのだな。お前らしくもない」
 行忠邸の、柾目が使っている東北の対の私室で酒を飲んでいた伴右大弁が、柾目の杯に酒を注ぎながら笑った。柾目が薄笑いを浮かべてまあ…と言葉を濁すと、伴右大弁は怪しいなと言って杯の酒を飲み干した。
「今さら、宴の夜にまで姫さまと寝所で愛を語らう訳でもあるまいに。他に好ましく思っておる姫でもできたのでは?」
「さあ、どうかな。この頃は少し面倒でね」
 目を伏せた柾目の通った鼻筋を見ると、ふうんと相づちを打って、伴右大弁は勝手知ったる我が家のようにごろりと畳の上に寝転んだ。脇息にもたれて酔いに頬を染めていた柾目は、酒の匂いのする息を吐いて扇を口元に当てた。
「本当さ。どんなに愛していると思われた所で、女人はみな、私の後ろを見ているのさ。私が式部卿となるのを、舌なめずりしながら待っている」
「それが男の甲斐性というやつじゃないのか。まあ、お前は苦労しなくても宮としては最高の位に就けるのだから、厭世的になるのも無理はないが」
「最高の位? 笑わせるな。式部卿が最高の位とは」
 あははと声を立てて笑うと、柾目はずいと身を乗り出して右大弁の目を覗き込んだ。切れ長で涼やかな目で右大弁をジッと見据えると、扇で右大弁の顎を上げて柾目は囁いた。
「主上さ」
「…え?」
「最高の位とは、主上のことだ。父上とて世が違えば、主上となり得たのだよ、右大弁くん」
 ニヤリと笑った柾目に、右大弁は青ざめておいと声をかけた。柾目が心得たように扇を鳴らすと、女房たちが衣擦れの音を立てながら下がっていった。母屋に二人残されると、柾目は右大弁にのしかかるように言葉を続けた。
「我が母上は、元は白梅院さまの寵愛を受け、後に捨てられた藤原家の娘。それを人のよい父上が貰い受けたのだ。体も心も壊れた中心のずれた独楽のような母上を、上皇の賜り物と父上は後生大切にしておられる。笑えると思わんか」
「何を言う…お前の母上は、白梅院さまの妃の中では希代の美女と讃えられた姫ではないか。お前の容貌がそれを証明していよう」
「顔がよかったから、父上に愛されたのさ」
 スッと身を引くと、柾目は自分で自分の杯に酒を注いだ。押されていた身を起こして伴右大弁が柾目の横顔を見ると、柾目は杯を煽ってふうと息をついた。
「今も父上は、母上を初めに貰い受けたのが自分なら、と仰る。ぼんやりしているようで、やはり皇子として一度は主上となる夢を見たことがあったらしい。だから私は、佐保宮は嫌いなんだ。佐保宮は自分の立場の価値を知らぬ」
「しかし、お前は佐保宮さまに三の姫を娶らせようと奔走しているではないか」
「…」
 目を伏せると、柾目はその場にごろんと横になった。
 立場ゆえか。ため息をついて柾目の背中を眺めると、右大弁はあぐらを組んで柾目に声をかけた。
「なあ、頼みがあるのだが」
「…何だ」
「俺は三の姫に恋慕している。お前に協力を頼みたい」
 右大弁が言うと、柾目は振り向いた。チラリと視線を向けて柾目が正気かと尋ねると、右大弁はニヤリと笑ってもちろんと答えた。
「すでに姫には恋文を送り、女房にも渡りをつけてある。だが、お前に言わずに夜這うのはいささか気が引ける。お前、今の内に佐保宮さまにあてがう他の姫を探しておいた方がいいぞ。行忠さまに隠し子はおらぬのか?」
 真顔で尋ねた右大弁に、柾目は黙ったまま右大弁を見上げた。一瞬、視線が絡んだ。仰向けに寝転んだまま柾目がジッと右大弁を見つめると、右大弁はそろそろと柾目に近づいてその顔を覗き込んだ。
「俺はやる時はやる男だよ、それはお前も知っていよう」
「そなた…そんなに私が好きか」
 柾目が尋ねると、右大弁は少し考え、それから好きだなと答えた。真面目な顔を見ると、柾目は吹き出して笑った。ひとしきり笑うと、目を押さえて柾目はクックッと肩を震わせて手に持っていた杯を放り出した。
「二度も三度もやられてたまるか。どんなに頑張って私に近づいた所で、そなたに気を許すのはあの一度きりのことだ。右大弁どの…あの時、俺は至上最悪に機嫌が悪かったのだよ。あれ以上に自暴自棄になることは二度とあるまい」
「分からぬよ。人間、どうなるか分からぬものだ。柾目…俺はお前にだけは愛してると言わぬだろう」
「…なぜ?」
「他の女にはみな愛してると言ってしまったからだ。お前だけは他の女とは違う。だから愛していると言えぬのだ」
 目を伏せて、それから右大弁は手を伸ばした。その手を扇で払うと、柾目は身を起こした。そろそろお開きにしよう。そう言って烏帽子を整えると、袴をさばいて柾目は立ち上がった。
「今宵は泊まっていくがよい。ただし、見張りはつけさせてもらおう」
「何だ、お前が俺の宿直か」
「まさか。私は忙しい身なのでね。女房ではそなたに丸め込まれようから蜻蛉をつけてやろう。夜通し孔子の講釈でも聞くのだな」
「何だ、あいつか」
 つまらなさそうに舌打ちした右大弁を見て、柾目は目を細め、それから母屋を出ていった。去っていく柾目の足音を耳を澄まして辿りながら、伴右大弁はため息をついて柾目の落とした杯を拾い上げた。

 
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