玻璃の器
 

 なるほど、水良の叔母上か。
 帰りの牛車の中で考え込みながら、馨君は静かに呼吸を繰り返していた。水良の出生に関することは聞けなかったけれど…尼御前さまのことが分かったのは大きな収穫だったような気がする。立てた膝に肘をついて考え込む馨君の横顔をそっと眺めている朝顔には気づかず、馨君は長い睫をしばたかせてふうと息を吐き出した。
 聞いてみなければ分からないものだな。
 二条のおばあさまと尼御前さま、どちらが先にお話を伺うべきだろう。おばあさまの方が当然、会いやすいけれど…尼御前さまの方がきっと、前麗景殿さまのことをよくご存じだろう。それに、ひょっとしたら尼御前さまの所には、前麗景殿さまの所で働いていた女房がいるかもしれない。
 しかし…やはり今、水良と外出するのは…まずは俺一人で、おばあさまにお会いするか。おばあさまも腹違いとはいえ前麗景殿さまとは姉妹にあたる方。何かご存じかもしれない。
 牛車がゴトリと大きな音を立てて、馨君が顔を上げると、朝顔がハッとして慌てて視線を伏せた。自分が六条からずっと黙り込んでいたことに気づいて、馨君は振り向いて朝顔を見た。
「朝顔、そなたの父は伊予の守だったのだな」
 さっき若葉の夫も交えて語らっていた時に、若葉の夫と朝顔が話していたことを思い出して馨君が口を開いた。朝顔が聞いておいででしたのと尋ねると、馨君は目を細めて笑った。
「私、袴着は都でしましたの。それからすぐ父母と共に伊予へ下って、そのまま伊予で暮らすか都へ戻るか迷ったんですが、裳着はやはり都で行った方がよいと父上に勧められて、十歳の頃に私だけ都へ戻って来たんです」
「それで内裏勤めとは、運のいいことだね」
「はい。王命婦さまを頼って、しばらく行儀見習いをしておりました。やはりどこかの貴族のお屋敷でと思っていたのですけど、ちょうど水良さまが内裏へ戻られ、同じ年頃の女房を探しておられるとのことでしたので」
「そう…伊予は極楽のようによい所だと、若葉のご亭主も言っていたが」
「ええ。伊予の湯桁というぐらいでございますから、湯が数えきれないぐらいあって、湯治に訪れる方も大勢いましたわ」
「私も一度は行ってみたいものだ…」
 ぼんやりと馨君が呟くと、朝顔はぜひおいで下さいませと答えて微笑んだ。
 いずれ水良と共に旅にでも出たいな。のんびりと二人で過ごせたら、どんなに幸せだろう。立てた膝に頬杖をついて馨君が目を閉じると、その横顔を眺めて朝顔は小さく息をついた。
 水良さまも春宮さまも、お気に入られる訳だわ。
 いつの間にか、好ましく思ってしまうのだもの。左大臣さまの一の君というお立場なら政敵も多いはずなのに、馨君さまを疎ましく言う者はどこにもいない。あの行忠さまですら、左大臣さまのことを苦々しく話すことはあっても、馨君さまのことは褒めそやしているし。
 私も。考えて、朝顔は目を伏せた。でも、どんなに思った所で自分は女房の身。勤めを辞めても父が伊予の守では身分違いもいい所だわ。身分違い? そんな風に思うことすら恐れ多い。馨君さまのおばあさまは、白梅院さまの異母妹の宮。兼長さまは臣下の身なれど皇孫ではないの。
「その時は朝顔、そなたが伊予を案内しておくれ」
 ふいに言われて、朝顔が顔を上げると、馨君はにこやかに微笑んで朝顔を見ていた。お伴させていただきますわ。朝顔が答えると、馨君は嬉しそうににこりと笑った。

 
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