玻璃の器
 

 しばらく三人で歓談した後、話は藤壺の立后に及んだ。これで後は春宮さまが主上となられ、藤壺さまが皇太后となられれば、婆も心置きなく尼になれますると言って呉竹は目尻を下げた。
「出家を考えているのか。私としては、まだまだ三条邸で頑張ってもらいたいが」
 馨君が驚いて尋ねると、呉竹は老いた身には嬉しいお言葉にございますと言って目尻の涙を袖で拭った。
「すでに、若葉も一人前になりましたゆえ」
「そうか…寂しいな」
「藤壺さまがご入内あそばされたら、兼長さまの赤子がお生まれになられれば、若君の袴着が終われば、元服が終わればと常に考えておりました。しかしながら、馨君さまのご成長を見るにつけ、やはり今生に未練が残ると思うてためらっておりました。馨君さまはご存じないでしょうが、馨君さまがご元服された夜、呉竹も髪に剃刀を当て、僧都さまから五戒を受けたのでございますよ」
「え、本当に?」
 まだ長いままの呉竹の白髪を見て、馨君が驚いて尋ね返した。実際に髪を切り落とさなくても、剃刀を当てる真似をして在世のまま出家する者もいた。白い髪がいつまでも長いのも、見苦しいことにございますゆえ。呉竹は笑いながら言って、それから目を細めたまま馨君を見上げた。
「今の馨君さまを見ていると、兼長さまが参内なされた頃のことを思い出しますわ。あの頃はまだ今の主上も東宮の地位にあらず、兄宮さまが東宮となられるのではとお噂されておりましたから、内大臣さま(馨君の祖父)も、藤壺さまを兄宮さまの元へご入内差し上げるよう準備を進めておいででした」
「兄って…もしかして会恵さまのこと?」
 驚いて馨君が尋ねると、お若い方には意外なことかもしれませぬがと袖の内で笑って、呉竹は話を続けた。
「故皇太后さまの皇子は二人おられましたから。今の主上と、会恵さまでございますわね。皇太后さまも白梅院さまも兄宮さまの方がお年が上なのだからと、兄宮さまの元に、太政大臣さまの孫娘の女五の宮さま(水良の母)がお嫁ぎになることをお決めになられて」
「だが、会恵さまは独身のままご出家されたと聞いたが」
「そうなのです。ご元服遊ばされてすぐに女五の宮さまが内裏へ入られると噂が立っておったのですが、なぜか兄宮さまは元服を添臥しなしに一人で行われて。それはもう、白梅院さまのお怒りは天を轟かせるほどでございました。しかも兄宮さまはその後も妃はいらぬと突っ張られて、とうとう内裏をお出になられたのでございます」
 …まるで誰ぞの話のようだな。馨君が目を伏せると、呉竹は眉を寄せてため息をついた。
「それで急遽、主上が東宮としてお立ちになられて、その後、ご元服あそばされたのですわ。あの時の混乱は、呉竹もよく覚えております。内大臣さまも兼長さまも、藤壺さまを予定通り兄宮さまの元へお輿入れされるか東宮さまへ差し上げるかで、毎晩のように膝付き合わせてご相談されておられました」
「そんなことが…それでは、主上はすんなり東宮になられた訳ではなかったのだな」
「とんでもございません。こう申しては何ですが、主上は皇太后さまからは可愛がられておいででしたが、お父上さま…白梅院さまとは犬猿の仲。兄宮さまが強情を張られた時も、白梅院さまはどうしても兄宮さまを主上にと最後まで頑張られて。あれで兄宮さまが折れて主上となられておいでなら、今の主上は帝の座に即くことはございませんでしたわね。兄宮さまの皇子が東宮になられたでしょうし」
 順番が回って来なかった、と言えば少し不躾でしょうが。笑いながら言った呉竹に、馨君はそうだったのかと感慨深げに息をついた。今の世が平穏なれば、昔も平穏だと思っていたけど…じゃあ、もし会恵さまが主上となられていたら、惟彰さまも東宮にはお立ちになられていないということか。
 それなら水良も、東宮問題で悩まずに済んだろうに。
 世が世なら…何とこの世は儚いことか。馨君が脇息にもたれて庭へ視線をやると、呉竹も庭を眺めて、移ろい行くこの世のことは神のみにこそ知り得ることでございますと呟いた。しばらく黙って庭を眺めると、馨君は呉竹を見て尋ねた。
「呉竹、当時の内裏の様子を詳しくご存じの方は、どなたがおられるだろう。白梅院さまや主上以外では」
「内裏の様子でございますか…そうでございますね。二条のお方さまは一時、藤壺さまと共に内裏へ上がられ、惟彰さまがお生まれになってからも何度か内裏へ訪れていらっしゃいますから、私よりも二条のお方さまの方が、詳しいことはご存じだと思います」
「その…佐保宮さまのお母上、前麗景殿さまのことをよくご存じの方は」
「女五の宮さまですか」
 意外なことを聞かれたと言いたげにポカンとして、呉竹は考え込んだ。しばらく考えてから馨君を見上げると、恐らくと首を傾げながら言った。
「女五の宮さまの姉宮さまにあたる方が、桃園にまだご存命であられますから、この婆よりは内裏のことをご存じなのでは。里下がり先は、姉宮さまのおられる桃園でございましたから」
「そうか、それは初めて聞いたな」
「はい。すでに出家して、尼御前(アマゴゼ)さまと呼ばれておいででございます」
「どうにか、その尼御前さまからお話を伺うことはできないだろうか」
 馨君が身を乗り出して言うと、呉竹は一瞬目をぱちくりさせ、それからホホホと袖で口元を隠して笑った。何? 赤くなって馨君が尋ね返すと、呉竹は目を細めて馨君を見上げた。
「馨君さまは、今、東一条邸においでなのでございましょう。佐保宮さまにとって、尼御前さまは伯母上にあたる方。佐保宮さまと共にお訪ねになれば、尼御前さまも喜んで迎えて下さいますよ」
「あ」
 ようやく気づいたように、馨君はぽかんとして声を上げた。その時、簀子の方から若葉の夫がひょいと母屋を覗いて夕餉の仕度が調いましたよと声をかけた。大した物はございませんが、どうぞ召し上がって行って下さいませ。若葉の夫がにこやかに笑いながら言うと、馨君は頷いて、ぜひ伊予の話を聞かせて下さいと答えた。

 
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