玻璃の器
 

 朝顔に会ったら、途端に元気が出ちゃって。
 何だってんだ。牛車に揺られながら、上座に座った馨君は立てた自分の膝に腕をついて黙り込んでいた。呉竹の元に、若葉の代わりに朝顔を連れて見舞いに行くからと水良に挨拶に行くと、最近はすっかり床を離れていた水良が嬉しそうに笑って朝顔の手を取った。いつからここに来てたんだ、なんて言っちゃって。憂い顔で外を眺めていると、余計に胸がムカついて馨君は眉をひそめた。
 バカな。こんな時に悋気など。
 水良のために、心を尽くすと決めたばかりだというのに。
 下座に座った朝顔が、ふてくされた馨君の横顔をちらちらと見ていた。それに気づいて馨君が振り返ると、朝顔は赤くなって慌てて視線を伏せた。何? 馨君が尋ねると、朝顔は申し訳ありませんと言って頭を下げた。
「私ったら、馨君さまと出かけられるのが嬉しくて有頂天になってしまって、水良さまにご挨拶に伺った時、ついそのことを申し上げてしまいましたでしょう。いつも叱られるんでございますの。あなたは少し口が過ぎるようだから、お気をつけなさいって」
「ああ…そのこと。それは別に構わないよ。水良も知っていた」
「そうなんですの?」
「夕べ、文を書いたから」
 馨君が真顔で言うと、朝顔はおかしそうに笑いを堪えて答えた。
「お文を? 同じお屋敷にいらっしゃるのに」
「あまり遅いと気の毒だから」
 苦笑いして言うと、馨君はまた外を眺めた。夕べ、本当は水良の元を訪ねたかった。今日、呉竹の所へ行くというのも半分は口実で、それを伝えに水良の元を訪れようと思った。それを…あの玉里が。唇を軽く尖らせると、馨君は思い出しただけでも腹が立つのかふうっと大きく息を吐いた。
 もう夜も更けましたから、文をお書きあそばせ、なんて。
 全く…あいつ、惟彰さまから何か言いつかってるんだろうか。朝顔は事情を知らなさそうだけど…ぼんやりと考えていると、牛車がゆるゆると止まって、従者が馨君に声をかけた。
「一の君さま、あちらで老女が手を振っておりますが…」
「え?」
 馨君が顔を出すと、小さいながらもこざっぱりとした垣根の前で、一人の老女が袖をもう片方の手でつかんで大きく手を振っていた。呉竹。馨君が声を上げると、牛飼い童が牛を外して榻を置いた。
「朝顔、おいで。あれが呉竹だ」
 機嫌が直ったのか、ニコニコと笑って馨君が手を差し伸べた。馨君さまの手をお借りするなど恐れ多いことですわと朝顔が赤くなって言うと、馨君はいいからと言って朝顔の手をつかんだ。
「呉竹! 背中の具合はどうなんだ。起きたりして大丈夫なのか?」
「お殿さまや北の方さまから差し向けていただいた侍医に診ていただいたら、もうすっかりよくなりましてございます。馨君さま、しばらく見ない内にまあご立派なお姿になられて」
 馨君の右手を皺だらけの手で優しく握り、涙を流さんばかりに喜ぶ呉竹の背を支えると、馨君は中へ入ろうと呉竹を促した。朝顔。馨君が声をかけると、牛車のそばで控えていた朝顔が深く頭を下げた。
「呉竹さま、若葉さんからお噂は伺っております。朝顔と申します」
「文にも書いたが、今、私は佐保宮さまのお邸で世話になっているので…そこで面倒をみてくれている女房だよ」
「ええ、ええ。若葉からも聞いておりますよ。さあ、どうぞ中へお入りになって下さいませ。それにしても、何とまあ、これほど桜直衣(さくらのうし)がお似合いになる若公達は滅多におられませんよ」
 満面の笑みで目を潤ませて言う呉竹に、馨君は照れ笑いを浮かべながら、もう少し頻繁に来てやらねばなとぼんやり考えた。子供の頃からずっと三条邸で馨君の面倒を見てくれていた呉竹も、すでに年老いて以前よりも小さく見えた。
 垣根と同じように小さいけれど小綺麗にした家に入ると、上座に座って馨君は下座に控えた呉竹を目を細めて眺めた。若葉夫婦と若葉の母親が共に住んでいるが、別の屋敷に女房勤めに出ている若葉の母親は留守で、若葉の夫が人のよさそうな笑みを浮かべて庭から頭を下げた。
「狭苦しい我が家ですが、どうぞおくつろぎ下さいませ。婆さま、夕餉の仕度をしましょうか」
「お願いできますかの。ワシはちとまだ腰の具合が」
「分かっておりますよ」
 にこやかに言うと、若葉の夫は馨君にまた頭を下げてからそこを立ち去った。よい方だな。馨君が言うと、呉竹はもったいないお言葉にございますと苦笑した。
「働き者でよい亭主なんですが、せっかく若葉が若君の元におるのだから三条邸で従者をと勧めても、根が田舎者ゆえ三条邸のような大きなお屋敷では恐ろしくて働けぬと言って、今は兼長さまからご紹介いただいた左衛門督さまと右兵衛門督さまのお邸で雑色をしておりまする。伊予から都へ出てきた男なのですよ」
「伊予か。それは遠い所から…若葉とよく巡り会ったものだ」
「両親を病で亡くして、一念発起で都へ出て来たのですが、やはり気後れがして市で細々と山の物や独楽細工を売っていた所で出会ったのです。初めは反対しましたが、ああ人のよい顔でニコニコと笑われると怒りも解けまする」
 苦々しげに言った呉竹の言葉に、馨君はおかしそうに笑った。廂に座っていた朝顔もクスクスと袖の内で笑うと、呉竹がため息まじりに話を続けた。
「三条邸が無理ならば、東一条邸ででもと言うたのですが、一度、東一条邸を遠くから見やっただけでも腰が引けてしもうて。佐保宮さまの私邸なれば、それほど大きゅうないし大丈夫じゃと申したのですが」
「まあ、本人が嫌だというものを無理強いしても仕方あるまい。ご亭主がその気になればいつでも…」
 言いかけて、馨君は口をつぐんだ。そうだ、水良はじきに内裏へ戻る身。そのような所に夫婦揃って働かせるのも不安を抱かせるのでは。馨君が言葉を選んでいると、呉竹は袖を横に振って今のままで十分でございますと笑った。

 
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