玻璃の器
 

 翌日、昼過ぎに届いた恋文は、三の姫付きの女房たちを騒がせた。
 文を目の前にして立つと、三の姫は息をついた。伴右大弁なんて知らないわ。戸惑い気味に文を見下ろすと、萌黄色の衵を着た三の姫はその場に座り込んで栄を呼んだ。
「お呼びでございますか、三の姫さま」
「この人のことをご存じ? 義兄上のお知り合いらしいの。あなたはここに勤めだして長いし、姉上の側回りをしていたこともあるから、知っているのではなくて?」
「あ…はい。伴右大弁さまは弾正宮(柾目)さまのご友人で、弾正宮さまほど雅に長じた方ではございませんけれども、頭がよくてお話も楽しく、とても気のいい方ですわ」
 言葉を選びながら栄が言うと、そばにいた女房が困ったようにため息をつきながら言葉を続けた。
「お殿さまが、三の姫さまは佐保宮さまと家柄もお年の釣り合いもよいしと、長い間、ご縁談を進めておいでですのに。右大弁さまは十もお年上で、正室こそおられませんが、恋人も大勢おられると聞きますわ」
「…なぜ、私なのかしら」
 膝を立てて文に視線を落とすと、三の姫はため息をついた。父上が佐保宮さまとのご縁談がまとまったらすぐにと仰って、まだ裳着さえしていないというのに。
 物思いに沈む三の姫の横顔を眺めると、栄は嬉しいような心苦しいような複雑な思いにかられた。右大弁がすでに自分に三の姫への手引きを頼んでいることを黙っているのは、心が痛んだ。けれど、こんな風に恋文が届いても何も分からずぼんやりする貴族の姫君が多い中、三の姫は自分で考え、悩んでいる。その姿を見ると頼もしくすら思えてくる。
「…まあ、確かに右大弁さまは話題も豊富で、宴の席でお話しさせていただいたことがありますが、とても面白い方でしたわね。失礼ながら、やはり宮さまの弾正宮さまよりもくだけていらして」
 栄と同じ年頃の女房がそう言うと、それもそうだけどと困ったように別の女房も袖の内でため息をついた。何度も文を読み返している三の姫を見ると、栄はお返事をなさらなければと言って硯箱を用意するために立ち上がった。
「栄。霧船に任せましょう」
 以前、伴右大弁を栄の元に案内して来た年嵩の女房が栄を呼んだ。ドキッとして栄が硯箱を持つ手に力を込めると、年嵩の女房は硯箱を栄の手から若い女房の霧船に渡して、栄を簀子へ連れ出した。
「栄、もしかしてあの晩、三の姫さまへの手引きを頼まれたんじゃなくて? あなた、敏行どのの前に右大弁さまのご寵愛があったじゃないの」
 年嵩の女房から問われて、栄はええまあ…と口ごもった。年嵩の女房は三の姫付きの女房の中では一番の年長者で、他の若い女房たちからも一目置かれていた。栄が言葉を探して口をつぐむと、年嵩の女房はやっぱりと言って栄の肩に手を置いた。
「よく三の姫さまをお守りしてくれたわね。心ない女房なら、何も考えずに寝所へ引き入れている所よ」
「いえ…でも、やはり」
「栄、右大弁さまはどう仰っておいでなの? そりゃあ三の姫さまも佐保宮さまに通われるのが一番だとは思うけれど…もう長い間、お殿さまがお話を進めていらっしゃるのに、一向に屋敷にもおいでになられないじゃない。佐保宮さまは左大臣どのの甥御であられるし…」
 年嵩の女房がため息まじりに言うと、栄はホッとして胸を撫で下ろした。やはり皆、同じことを考えているのだわ。佐保宮さまが乗り気にさえなって下されば、いいご縁談なのにと。
「…私も、佐保宮さまが三の姫さまに文も下さらないのは、やはり不安でございますの」
「栄も? やはりそうよねえ」
「右大弁さまは、三の姫さまを慈しんで大切にすると仰っておいででしたわ。確かに、右大弁さまには愛人が大勢いらっしゃいますけど、それも皆、女房ばかりで、公卿の姫に通われたことはございませんし…何よりも、右大弁さまは弾正宮さまとも仲がおよろしくて、行忠さまからも目をかけられておいでです。三の姫さまをご正室にお迎えになれば、末は大臣ともお立ちになられるだけのご器量はお持ちかと」
「そう…あなたは頭がいいから、元恋人の贔屓目で言っているのではなさそうね。三の姫さまと佐保宮さまの噂はすでに都でも広がっているから、お殿さまが他にご縁談をお進めにならない限り、誰からも文は来ないかもしれないと思っていたけれど」
 年嵩の女房が言うと、栄は苦笑いして目を伏せた。ひょっとしたら、私一人で事を進めるよりも、彼女を味方につけた方がいいかもしれない。そうすれば、右大弁さまが三の姫さまの元に通う時にも、ずっと通いやすくなるし。
「実は、夕べも右大弁さまが局に訪ねて来られて」
 栄は庭の方を向いて年嵩の女房に耳打ちした。母屋では三の姫が霧船から歌の指導を受けながら文の返事を書いていた。筆を持つまだあどけない手を見ると、栄は年嵩の女房の耳元で囁いた。

 
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