梨壺の廂に詰め、緊張した面持ちで宿直をしていた馨君に、女房が声をかけた。夜通し窮屈な束帯を着たままの馨君を気づかって、衣冠に着替えさせるようにという惟彰からの命があった。主立った公卿たちはまだ清涼殿に集まって、審議を続けているようだった。馨君が女房に従って衣冠に着替えると、女房は夜食を持ってくるかどうか尋ねた。
「いえ、結構です。それよりも春宮さまと佐保宮さまに、お気を楽になさるようにと伝えて下さい」
静かな梨壺の雰囲気では、離れた場所から声をかけるのも憚られた。馨君に頷いて女房が母屋へ戻ると、馨君は廂でまた片膝をついて視線を伏せた。
今頃、主上はどうしておられるだろう。
藤壺さまはこの事態を予めご存じだったのだろうか。長い睫をしばたかせて馨君はふうと息をついた。
おばあさまから話を聞いている途中だったのに、最後まで聞けなかったな。
他にも何かご存じの方がいるかどうか、聞きたかったのに。もし水良が東宮になってしまったら、気軽に外に出られなくなってしまう。そうなれば共に前麗景殿さまの姉宮さまの所へ行くことも…落ち着くまではできないだろうな。御簾が下がったままの母屋の内では、惟彰と水良が小声で何か話し始めていた。その言葉は馨君の所までは届いてはいなかったけれど、特に激昂した様子もなく穏やかな口調で、ホッとして馨君は足を立て直した。
疲れた…けれど、もし今横になっても、きっと目が冴えて眠れないんだろうな。
それはきっと、惟彰さまと水良も同じ。だからああやってご兄弟で何か語らっておいでなのだろう。いや…そうか。目を伏せて眉を寄せると、馨君はそっと御簾の内の気配を窺った。水良の父上が主上ではないのなら、惟彰さまとの血のつながりは本当に薄くなってしまうんだ。もし、水良の父上が白梅院さまですらなかったら…どこかの他人だったとしたら。背筋が寒くなって、馨君はギュッと拳を握りしめた。俺の口から、水良に主上を信じようと告げたばかりではないか。水良は間違いなく主上の血を受けた皇族のはず。
「父上、大臣方」
ハッと足音に気づいて馨君が顔を上げると、廂を渡って公卿たちが来るのが見えた。馨君ともう一人梨壺に詰めていた近衛中将が隅に移動して再び控えると、兼長を含めた公卿が揃って廂に平伏した。
「惟彰さま、水良さま。おめでとうございます。これより惟彰さまを今上、水良さまを東宮と奉り、世に広く知らしめるべく儀式を整えまする」
「兼長どの、私たちは…いかように」
「主上がお話しになりたいと仰っておいでですので、お迎えに上がりましてございます。惟彰さま、水良さま、どうぞそのまま清涼殿へ」
「分かった」
御簾内で惟彰が立ち上がった影が見えた。脇に控えた馨君の目の前で女房が御簾をめくり、惟彰に続いて水良が大君姿のまま出て来た。これからの次第をご説明申し上げますゆえ。そう言って兼長が頭を下げると、惟彰は立ち止まって兼長に頷いた。
「私はまだ若輩の身ゆえ、至らぬ所もあるだろう。これからもよろしく頼む」
「すべて御心のままに」
惟彰と水良が共に清涼殿へ向かうと、後について公卿たちもまた戻って行った。そなたたちはここで待てと一番後ろにいた行忠が振り向いて馨君と近衛中将に声をかけた。二人が平伏すると、後を母屋に控えていた女房たちが続いた。
行ってしまう…水良が。
視線を伏せたまま、馨君はギュッと唇を噛み締めた。大臣たちに取り囲まれて姿の見えなくなった水良を思うと、叫びたいほど恐かった。何て重圧だろう…これを水良は一人背負わなければいけないのか。
「大変なことになったな。こんなに急に代替わりとは。践祚はいつ行われるのだろう」
「それもこれから春宮さまたちを交えてお決めになられるのでしょう。主上の御身が心配です…」
ひそひそと話す近衛中将に馨君が小声で答えると、近衛中将は眉をひそめて頷いた。とりあえず、急逝された訳ではないようだ。馨君の他には聞こえないような呟き声で、近衛中将はため息を吐きながら囁いた。
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