玻璃の器
 

 日を置いて惟彰の即位の儀が行われると、小除目(こじもく)があって、惟彰から聞いた通り馨君は左近衛中将に昇進した。
 同時に他の数名も職が変わり、時の大輔は右近衛中将、行忠は大納言となった。惟彰の即位以来、ずっと近衛府に詰めていた馨君は、警護以外では梨壺へ行く暇もなく、また兼長から入内に関する詳しい話も聞けないままでいた。
 惟彰の即位に準じて、梨壺から里下がりをしていた芳姫の女御入内が改めて執り行われることになり、藤壺で馨君は兼長と久しぶりに顔を合わせることになった。絢子は惟彰が主上となったことで藤の皇太后と呼ばれるようになり、前主上が都の外れにある花河宮に移った後も、年若い主上の妃たちを補佐するために藤壺に残っていた。
「少しやせたようだけど、大丈夫なの?」
 兼長はまだ来ていなかった。馨君が廂に鎮座して視線を伏せていると、ふいに絢子の声が響いた。それまで自分が思わしげに黙り込んでいたことに気づくと、馨君は弾かれたようにビクッとして顔を上げた。
「はい、大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ございません」
「そう? 院も初めは少しおやせになってから、具合が悪くなられたの。忙しいだろうけど、無理はしては駄目よ」
「はい…あの、花河院さまのご容態は」
 心配げに馨君が尋ねると、絢子は几帳の内で目を細めて答えた。
「二条へ移られた途端、何だかお元気になられたようで、私にも早くおいでと仰せだそうよ。全く、どなたの駄々で私がここへ残ることにになったのだか、全然分かっていらっしゃらないんだから」
 ため息混じりに言うと、絢子は扇の内で笑いながら、でも、私も二条へ移ると意地を通していたら、主上の晴れ姿も見られなかった訳だしと付け加えた。
「ご立派なお姿であられましたね。主上も…春宮さまも」
 馨君が少し言葉を探してから言うと、絢子はそうねと言葉を返した。
「春宮さまは主上に比べればまだまだ子供かと思っていたけれど、もう十五におなりだものね…馨君、あなたにもいろいろと世話になって、本当に感謝しています。ありがとう」
「いえ…皇太后さま、東一条邸はそのまま私が管理をさせていただいてもよろしいのでしょうか」
 すでに若葉を含めた女房の半分は三条邸へ戻していたけれど、残りの半分と雑色はそのままで、いつでも使えるように手入れをさせていた。東一条邸の家司もそのまま置いていて、真面目な人柄だからと馨君の判断で水良の財産管理を任せていた。
「そうね。そのまま手入れを続けてもらえると助かるわ。せっかく修理をしてもらったのだもの。私だって一度は訪れたいわ。その時は伴をお願いね」
「はい」
 絢子の明るい声に、馨君は何となくホッとしてニコリと笑った。しばらく二人で東一条邸の様子を話していると、ようやく兼長が訪れ、ふうと息をつきながら腰を下ろした。
「主上の御前に出る時は、私でも緊張しますな。まだお若いこともあるだろうが、院に比べるとお口も冴え冴えとなさっておられる。院は柔和で知られたお人柄でございますからな」
「院は昼行灯、主上は夜行灯といった所かしら。頑張り過ぎて反感を買わなければいいけれど」
「とんでもございません。公卿以下、主上の知識の広さには感服しておりますよ。主上を我が頭上に頂けるのかと思うと、感激でこの身が震えまする」
 そう言って、女房が持ってきた白湯を口に含むと、兼長は廂から庭を眺め、今年の花宴は盛大に行ないましょうと言って目を細めた。馨君もつられて庭に目をやると、ふいに兼長の声が耳に届いた。
「皇太后さま、水良さまの東宮妃入内の件ですが」
 サッと顔色を変えた馨君にも構わず、兼長は女房に白湯を入れていた杯を渡してから言葉を続けた。
「梨壺さまの女御入内と重なりますので、梨壺さまの準備は私が、東宮妃入内の件はここにいる一の君に準備をあたらせようと考えております。以前、梨壺さまが東宮妃として入内された時によくやってくれましたし…主上と共に、これには春宮さまをお守りする責任がございます」
「ええ、私はお手伝いできなくて申し訳ないけれど…緯子さまはお元気になさっておられるの? 兄上と北の政所(楽子)の元へ養女として迎えることに、反対はなくて?」
「いえ、東宮妃として内裏へ上がらせていただけるなら、身に余る光栄だと。二の姫にも三の姫にもすでに通われている婿君がおりますので、少し年は下ですが、春宮さまには四の姫を差し上げまする」
「四の姫? 二の姫がつり合うお年頃なら、四の姫ではまだ幼すぎるのではなくて?」
「二の姫は春宮さまより三つ年上ですから。四の姫は今年十三歳でございます。親の私が言うのも恥ずかしいことですが年若ながら楽も絵も達者で、大人しい二の姫よりも内裏に花を添えてくれるのではと」
 それなら大丈夫ね。絢子の声が響いて、馨君はようやく視線を上げた。四の姫…あまり記憶にはないけれど、緯子さまの末の姫だったか。父上のことだから、すでに三条邸へお迎えしているのだろうな…。黙ったままでいる馨君にチラリと視線を走らせると、兼長は咳払いをして言葉を続けた。
「一の君や、よろしく頼むぞ。代替わりしたばかりで当面忙しい日々が続くが、体を壊さぬようにしておくれ。それから、何か分からぬことがあれば藤壺に来てくれ」
「はい」
 重い気分を払うように返事をすると、心を尽くしてお世話させていただきますと言って馨君は平伏した。これまで水良に何かあれば世話をしてきた自分を思うと、水良の東宮妃入内の世話を馨君にと兼長が言うのも自然なことだった。しばらく入内の打ち合わせをして、それから藤壺を下がると、馨君は目を伏せたまま重い足取りで近衛府へと戻った。

 
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