玻璃の器
 

 水良が承知していると言うのなら…今更、俺が何を言えることがあるだろう。
 三条邸へ戻るのもためらわれ、その日、宿直をしていた馨君は、明かりを灯して梨壺に宛てて文を書いていた。あれからまだ一度も水良と顔を合わせていなかった。そばにいると言ったのに、水良と会うことすらままならない現状で、せめて文をと料紙を目の前にして馨君はため息をついた。
 何から書き出したらいいんだろう。
 水良は今、何をしているだろう…顔が見たい。触れたい…目を伏せて筆を手に取ると、それをまた置いて馨君は墨をすり直した。それから筆を手に取って、頬を少し傾け眉をひそめたまま穂先を滑らせた。

  君がためいかにせよとか 白花の咲き誇るべき御代の八千代に

 (あなたのために他にどうしろというのか、梨の白い花が咲き誇るあなたの世が長く続くのに)
  あなたとの約束を叶えられない身を、どうしようもなく悲しく思っています。
  あなたの憂いがすべて私の身に降り掛かればいいのに、そうすればせめてあなただけは心穏やかでいられるのにと、思い悩む日々です。そばにいられない私の代わりに、朝顔を内裏へ戻すよう文を書きました。明後日にはあなたの元へ参上できるかと思います。
 長いまつげをしばたかせて、馨君はもう涙も出ないな…と静かに息を吐き出した。水良が俺を思っているのかすら、今はもう分からない。未練がましく文を書くぐらいなら、三条邸へ戻って東宮妃入内のために四の姫の妃教育に励む方が、ずっと水良のためになるのかもしれない。
 もう二度と…水良と過ごす夜はないのだろうか。
 一時でも共寝をしたことを思い出に、それぞれ離ればなれに生きて行くしかないのか。
「馨中将さま」
 梨壺へ文を届けるよう頼んだ女房が戻ってきて、馨君を呼んだ。ああ、ありがとう。馨君が振り向いて声をかけると、これを馨中将さまにお届けするように言いつかりましたと言い添えて女房は手に持っていた梨の枝の結び文を押し出した。
「春宮さまから?」
 馨君が尋ねると、女房は御簾越しにいいえ、梨壺の女房どのからと答えた。眉を寄せて馨君が下がってよいと言うと、女房は衣擦れの音をさせながら内裏へ戻って行った。
 これは、確かに梨壺にある梨の木の枝…梨壺の女房が俺に何の用なんだ。馨君が文を開くと、そこにはやや乱れてはいるものの、いつものようにゆったりとした水良の手が書き連ねられていた。
 文面に視線を走らせると、馨君は顔色を変えてギュッと眉根を寄せた。文をねじって灯台の火をつけると、そのまま炭櫃に放り込んで馨君は立ち上がった。

 
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