玻璃の器
 

 夜も更けた京の大路に、女車がゴトリゴトリと音を立てて進んでいく。
 夢現とも、妖しとも見まがわれるような幽玄な白い出衣がひらひらと風に舞っていた。二月の気温は花ほころばせるほど暖かだったが、そぞろ歩きをする人影もなく、牛車は東一条に向かってゆっくりと歩を進めた。
 無文の牛車は主のいない東一条邸の門から中へ入り、付き従っていた牛飼い童が門番をしていた侍にひそひそと声をかけた。そのまま牛車は寝殿の階まで進み、ゆっくりと止まった。寝殿の母屋に、女房が御簾越しにお着きでございますと声をかけた。中にいた人影はスッと立ち上がると、御簾をめくって廂に姿を現した。白い直衣に烏帽子をかぶった若公達は、轅から牛を外した牛飼い童にご苦労だったと声をかけて階を一番下の段まで降りた。
「すまぬが、みな下がってくれ。私が通うには身分の低い姫ゆえ…今宵が最後の逢瀬になるやもしれぬ」
 若公達が女房と牛飼い童に声をかけると、おいたわしや、昨年はこちらより自由にお通いになられておりましたのに…と女房が涙ぐんだ。牛車だけがその場に残されると、まるで人が乗っているのかと疑わしく思うほどの静けさで、若公達は牛車の前簾を巻き上げて中に手を伸ばした。
「無理を言ってすまなかった。よく来てくれたな」
「…」
 見事な織りの袿の裾が牛車からこぼれていた。扇で顔を隠した姿を見て、水良は口元から笑みをこぼした。そのまま小柄な体を抱き上げて牛車から降ろすと、水良は扇で顔を隠したままの姫を母屋へ運んだ。
「…それでは誰も、そなただとは思うまい」
 薄暗い母屋の畳の上に下ろして、馨君の美しい顔を眺めて水良は目を細めた。髢をつけて後ろにひとつに束ねた髪は、背をゆるやかに覆って足下まで届くほどに流れていた。茵の上に下ろされて着慣れない女袿の袖に目をやると、馨君は大きな目で水良をジッと見上げた。
「バカなことを…内裏を抜け出すなんて。お前がいないとみなに知れたら、これまで以上に騒ぎになるというのに」
「明け方までには戻るつもりだ。どうしても会いたくて…お前を抱きたくて」
 馨君の背を支えたまま、水良は頬を傾けて馨君の唇に口づけた。舌を伸ばして絡めると、あっという間に息が上がって馨君は水良の背に腕を回した。馨君の体を横たえてもう一度口づけると、水良は似合うよと言って笑った。
 お互い、水良が東宮となったことも、東宮妃入内のことも口にはしなかった。ただ黙って馨君の髪をなで胸元をはだけると、そこを吸って水良は息を乱した。体は男のままなんだな。からかうように言った水良の言葉に、馨君はふいに顔を背けた。袖で顔を隠した馨君に気づいて水良が身を起こすと、バカなことを言わないでくれと振り絞るような馨君の声が響いた。
「俺とて…姫に生まれていればと何度思ったか分からない…この身が孕める体ならと。それでもお前の元に参じる妃の入内の準備を、我が身を削るようにして進めねばならぬのだ」
 息をのんで水良が黙り込むと、馨君は袖で顔を隠したまま小さく呻いた。ごめん。馨君の顔を覗き込んで呟くと、水良は馨君の体を強く抱きしめた。何度も、何度も口づけて、時よ止まれと願った。水良のサラリと乾いた熱い手が馨君の体を愛おしそうに辿って、袴の紐を解くと、そのまま水良は馨君の足を開いてそこに顔を埋めた。
 忘れたい。今宵ばかりは…忘れよう。互いの立場も、何もかも。
 馨君のふっくらと愛らしい唇から、かすかに声がもれた。身を起こしてその顔を灯台の方へ向けさせると、乱れた髪を直して水良はその頬に唇を寄せた。

 
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