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久しぶりに馨君が三条邸へ戻ると、前大納言家の四の姫を迎えた三条邸の寝殿はどこか華やいで活気に溢れていた。母上が準備を進めて下さっていたのだな。ホッとして馨君が楽子に挨拶するために寝殿へ行くと、楽子は四の姫と碁を打っている所だった。
「母上、留守にして申し訳ありません。四の姫さまもこちらにおいでと伺いましたが」
几帳を立て、御簾を下ろした寝殿の廂に座を設けて、馨君はあぐらを組んでにこやかに尋ねた。女房が少しおやせになったのではと言っているけれど、大丈夫なの? 御簾越しでは馨君の顔がはっきり見えない楽子が尋ね返すと、馨君はニコニコと笑って大丈夫ですよと答えた。
「父上が四の姫さまのお世話をするようにと仰っておいでで…東宮妃入内の準備を任せていただきました。父上は梨壺さまの女御入内のお世話がありますので。宿直が続いてつい遅くなりましたが、四の姫さまにもご挨拶をと参じました」
馨君が言うと、几帳の向こうで何か囁くような声が響いた。でも恥ずかしいわ。今度ははっきりと可愛らしい声が聞こえて、馨君は一瞬、自分の膝をギュッとつかんだ。
四の姫のお年は十三だったか。
水良より二歳年下だったな…まだ裳着もしていない、ねんねではないか。
これで水良の元へ入内して、妃としてやっていけるのか…水良の寵愛を受けるのか。いや…そうなるように教育するのも俺の役目。苦い固まりを飲むように唾を飲み込んで、それから馨君は優しげに目を細めて尋ねた。
「四の姫さま、私ができる限りのお世話をさせていただきますゆえ、これからは兄と親しんで頼って下さい。母上と碁をお打ちになられていたのですって?」
「ええ…あの、私は雛が好きで、そればかりで遊んでいたのでまだ碁が上手くないのです。それで、北の方さまに教えていただいていたのです。馨君さま、私、ずっと馨君さまが私の義兄上だということを誇りにして参りましたわ。お目にかかれて光栄でございます」
あどけなさの残る声で言うと、四の姫は几帳の向こうで頭を下げた。几帳の端から流れ出た髪は豊かで長く艶やかだった。今は考えるまい。自分の膝をつかんでいた手を離すと、馨君はこちらこそお会いできて嬉しゅうございますと頭を下げた。
「姫さまの東宮妃入内の準備では、母上にもお世話になりました。私が心を込めて準備をさせていただきますので、母上さまはどうぞ梨壺さまの女御入内の準備をお手伝い下さい。父上も内裏の勤めが忙しくて、なかなかこちらへ戻れませんし」
馨君が笑って言うと、楽子は少し黙り、それからあなたもご自分のことをなさってちょうだいねと答えた。自分のこと? 馨君が尋ね返すと、楽子は言葉を選んでから慎重に答えた。
「ええ。蛍宮さまの女一の宮さまのことよ。お文を書いているって、熾森から聞いたわ。ようやくあなたにも心惹かれる姫君ができたのだと思うと嬉しかったのだけど…なにぶん、今は主上のことで世間も慌ただしい時期でしょう。私はせめて夏までは婚礼を延ばしてはと申し上げたんですけど、殿はめでたいことは早い方がいいと仰って」
楽子の話に、馨君は苦笑してご心配をおかけしますと呟いた。熾森が父上に進言したのか…萩の宮姫さまに贈り物をしていた頃から、筋書きはできていたんだろうか。目を伏せてから顔を上げると、馨君は殊更明るく、その通りですよ母上と答えた。そのために東宮妃入内の準備が疎かになるようなことはありませんから、と。
今日は遅いからと、すぐに話を切り上げて馨君は西の対へ向かった。自室で冠直衣を脱ぎ気軽な袿に着替えると、急に体が重く感じて馨君は座り込んで脇息にもたれた。
疲れた。
もう何も考えたくないな…このまま、時が過ぎてしまえばいい。脇息についた腕に頬をもたせかけて目を閉じると、馨君はそのままの体勢で女房に一人にしてくれと告げた。水良を受け入れた体はいつものように痛んで、それも以前なら嬉しい痛みだったのにと息をひそめた。
梨壺に戻った水良から、近衛府に出仕した馨君宛てに名を伏せた文が届いた。
そこには歌はなく、ただ生涯、心は変わらぬとしたためられていた。心はそなたに、体は日の本の国へと。それが却って水良の春宮としての決意を目にしたようで、目頭が熱くなった。そのまま灯台の火で文を燃やすと、炎が燻って消えるまで見届けた。
こんなにも水良を思っているのに、と、心は叫び声を上げていた。
ゆっくりと目を開くと、馨君は立ち上がって文箱を開いた。中にはこれまで水良にもらった文が入っていた。これも明日、誰にも見られぬ内に焚き上げねば。文を開くことなく蓋を閉じると、馨君はその隣に置いてある真新しい文箱に気づいてその蓋をそろりと開いた。
中には色とりどりの薄紙が入っていて、萩の宮姫から来たという文はこれかと息をついて馨君はそれをごそっと取り出した。下になっていたものからガサガサと音を立てて開くと、丹念に視線を走らせた。萩の宮姫の手は雅びな蛍宮の娘らしく、たおやかで大人びていた。俺よりもお年は上なんだものな。言葉を交わした夜を思い出して目を伏せると、馨君は文を次々と開いた。
熾森が代筆したという自分の側から出した文はもうすでに見ることはできなかったけれど、萩の宮姫の文を見ると、何となく想像がついた。多分、あの琵琶と笛を合わせた夜以来、あなたのことが忘れられなくなったとでも書いたのだろう。苦笑いして文面に視線を走らせ、馨君は母屋の真ん中に座り込んで自分の回りに文を広げた。
俺には過ぎた姫だ。
俺が内裏にいる間に、ひょっとしたら都では俺が萩の宮姫に懸想していると噂が立っていたかもしれないな。いや、主上の即位の儀なんかが続いたから、俺の噂など立つ暇もなかったかもしれない。クスクスと笑って、馨君は一番上に重ねてあった文を開いた。そこにははっきりと恋の歌が書かれていて、馨君はその文面を指先で丹念になぞった。
萩の宮姫の元に通わねば。
俺との婚礼の噂がもし立っていたら…今更、他の男を、なんていう訳にもいくまい。早く決めてしまった方がいいんだ…その方が、迷わずに済む。
「若君さま、お帰りなさいませ」
馨君が参内している間、三条邸で冬の君のお守をしていた熾森が、馨君の帰宅を聞いて挨拶にと廂から声をかけた。文を手に持った馨君が座ったまま振り返ると、熾森はピクリと眉を上げ、それから何食わぬ顔でおめでとうございますと一言だけ言った。
「お前の手が俺の手だと思われるのは不本意だな。お前の字は少し癖があるもの」
無表情のまま馨君が言うと、熾森は申し訳ございませんと答えた。視線が絡むと、馨君は文をたたんで丁寧に文箱に入れた。
「しばらく四の姫さまの入内の準備で忙しくなるだろう。今夜の内に、萩の宮姫さまには俺から文を書いておくから、明日、俺が参内した後でいいから届けるように文使いに言ってくれ」
「はい」
「明日も内裏に詰めねばならん。申し訳ないがもうしばらく通えそうにない、と」
「分かりました」
熾森が答えると、馨君は文箱の蓋を閉めて立ち上がった。それを二階厨子にそっと置くと、馨君は水良の文を入れた文箱を取り上げ、側にあった美しい色の紐で十字に固く縛って、それから熾森に差し出した。
「萩の宮姫さまに文を届ける前に、これを間違いなく焚き上げてくれ。最後燃え尽きるまで確認するように。途中で場を離れてはならぬ」
馨君が言うと、熾森はかしこまりましたと言って文箱を受けとった。疲れたからもう休むよ。目をそらして馨君が呟いた。ゆっくりお休み下さいませ。低い声で囁くように言うと、熾森は文箱を持って廂から外へ出て行った。 |