玻璃の器
 

 芳姫よりも早く、濃姫は花宴の数日前に今右大臣の養女となり女御入内を果たした。惟彰が主上になるまでに大臣昇進の間に合わなかった行忠が、明らかに芳姫を意識して遅れを取らないよう、濃姫が更衣、芳姫が一段位の高い女御として入内をすることのないようにと計らったのだった。
 芳姫の東宮妃入内に負けずとも劣らない数の女房と豪奢な衣々で飾った仕立て車が連なる、立派な入内行列となった。先の主上の弘徽殿女御が行忠の異腹の姉だったこともあって、濃姫は入内後、弘徽殿に入った。
 濃姫と共に行儀見習いとして内裏へ入った行忠の三の姫も交え、紫宸殿の南庭にある左近の桜が今にも溢れそうなほど花を咲かせていた二月の終わり頃に、花を眺めながら詩歌管弦を催す花宴が、新主上が出向く初めての宮中の宴として華やかに行われた。
 主上の気に入りの家臣の一人として舞を一差し披露した馨君の艶やかな舞姿を見た殿上人は、主上に続いて春宮の元にも血縁の姫を入内させ、更に自身の親王家との婚礼と続き、何の憂いもない左大臣家の一の君の行く末の綺羅綺羅しさを噂し合った。
「やはり内裏の宴は素晴らしいものですわね。ほら、馨中将どのの舞を眺める主上の立派なお姿、姉上はご覧になって?」
 何もかも見たことのないものばかりで、驚きと興奮を交えながら話す三の姫に、濃姫は沈黙で答えた。わらわとて、初めて参内した折に主上からあのような仕打ちを受けねば、今のそなたのように輝かしい表情をして宮中の宴を楽しめたやもしれぬのに。黙ったままぼんやりと馨君の舞を眺めていた濃姫は、憎らしや左大臣家の一の君と眉をひそめて息を殺した。
 あの者が、あのように見目麗しく主上の気に入りとならねば、芳姫が主上の目に留まることもなく、また寵愛を奪われることもなかったのに。
 たとえ父上が頑張った所で、所詮はまだ大納言、兼長には遅れを取っている。わらわには臣の兄弟もおらず、もし父上に何かあらば頼るは柾目のみ…父上は何も分かっておらぬ。姉上の我侭に振り回され柾目を婿に迎えた時から、我が一族は誤った方向へ進み出しているのだ。
 誰も、何も分かっておらぬ…本来なら、姉上を主上に、わらわを春宮に…そして、三の姫は有力な臣家の息子を迎えねばならぬ所を。せめて三の姫は、春宮などではなく今右大臣の四の君辺りへ輿入れさせておかねばならぬ。父上は自分の力を過信しておられるのだ。わらわの力など、主上の寵愛を受けぬ身ではなきも同然…考え込んだ濃姫の表情を見て、三の姫は怪訝そうに首を傾げた。まただわ。この所、ずっと考え込んでおられる。
 姉上の所へ行儀見習いに来るようになって、初めは面倒だし窮屈だからと嫌がっていたけれど…。几帳を斜めに立てて御簾越しに馨君の舞を眺めながら、今日の桜のような淡い桜色の汗衫を着た三の姫はちらりと濃姫に視線を向けた。ずっと何かを考えておられる。主上のことでお悩みなのかしら。ずっと知らなかったけれど、姉上は主上のご寵愛から少し遠ざかっておられるとか。父上も心配なされて、入内の折にも方々から珍しい絵巻物や調度を持たせて、主上に弘徽殿へ来ていただけるようにと配慮されておられた。
「姉上?」
 三の姫が声をかけると、濃姫はようやく気づいて顔を上げた。濃姫は無口で気位が高いと噂されていたけれど、三の姫にとっては優しい姉だった。こちらに気遣いは無用だから、あなたはゆっくり宴の様子をご覧なさい。濃姫が言うと、三の姫は頷いてまた宴に視線を走らせた。
 その日の夜、主上よりお召しのあった濃姫は、女房たちに着飾られ、花開き匂いたつばかりの艶やかな姿で夜の御座へ向かった。内裏へ戻ってからまだ惟彰と顔を合わせていなかった濃姫は、平伏したままお久しぶりにございますと小さな声で囁いた。
「本当に久しぶりだね。以前、あなたに会った時、まだあなたは宣耀殿と呼ばれていた」
「…」
「父上の退位で、思った以上に長い里下がりとなってしまったね」
「申し訳ございません…」
 濃姫が言うと、惟彰はうっすらと笑みを浮かべて構わぬと声をかけた。こちらへおいで。灯台の火の下で漢籍を読んでいた惟彰がそれを閉じて向き直ると、濃姫はわずかに惟彰に近づいてまた床に手をついた。
「今宵の宴で、少々お酒を聞こし召しておいででしたので、もうお休みかと思っておりました」
「気が高ぶっているようで眠れぬので、少し語らいの相手をしていただけないかと思ってね。濃姫、行忠邸ではどんなことがありました? やはりご自分の里の方が気が楽でしょう」
 惟彰の言葉に、濃姫は思わず視線を伏せた。主上に知れる訳がない。別に他意はないのだろう。小さく息を吐くと、濃姫は初めて自分から惟彰の肩に頬を寄せて目を閉じた。
「…濃姫」
「主上、私…が里へ下がるのを、内裏での生活が嫌だからなどと思わないで下さいませ」
「…」
「妹の行儀見習いにと、父上が呼び寄せられるのでございます。今春宮さまの元へ入内される前に、やはり内裏の生活などお話して差し上げたいので」
「分かっているよ、大納言もそう言っていた」
 惟彰が濃姫の肩を抱くと、濃姫は目を開いた。春宮が主上となり、父上が大納言に昇進した今、自分のことも今までのように無視はできぬと皇太后から言い含められたのだろうか。ジッと身動きせずに静かに呼吸を繰り返す濃姫に、惟彰は濃姫の身を起こして背中に腕を回した。
「今宵の宴は、あなたも見ていたのでしょう」
「はい。少し頭が痛かったので控えようと思ったんですの。でも、それではせっかく内裏に参っている妹が可哀想かと」
「今年の花宴は例年にも増して素晴らしかったと、左大臣も言っていた。あなたは馨中将をお嫌いかもしれないが、今宵の舞を見て考えを直したのではないの? まるで本当に桜の精が舞い降りたかのようだっただろう」
「そうでございますね。ああ美しいと、鬼にでも魅入られて冥土へ連れて行かれるのではと心配になりますわ」
「あなたはそう思うの…いくら美しいとは言っても、かの君も人の身。人以外にさらわれることもなかろう。他の者にも見せたかったな…」
 ぼんやりと呟いて濃姫を抱きしめた惟彰の言葉を聞いて、濃姫は体を強張らせた。
 そう…そうだったのか。
 澪姫も、芳姫も未だ里に下がったままで主上の妃としては入内を果たしていない。その代わりに、わらわを呼んだと仰るのか。濃姫の身を横たえてその唇に口づけると、惟彰はにこりと笑った。誰に笑いかけられているおつもりか。芳姫か…それとも。
 わずかに目を見開いて、それから濃姫はジッと惟彰の顔を見上げた。目を伏せて愛おしそうにはだけた濃姫の肩に口づけた惟彰を見つめながら、心の奥底から吹き出す憎悪の炎をどうすることもできずに濃姫は何度も呼吸を繰り返した。
 あの芳姫ですら、代わりだと仰るのか。乳首を温かな舌で包まれて、濃姫は視線をそらしてギュッと目を閉じた。いくら思った所で、男の身では入内できぬ。馨君にも通う姫がいるというではないか。
「主上…」
 目を開いてチラリと視線を向けると、濃姫は惟彰の手をつかんだ。それならば…わらわにも勝ち目はあろう。あの忌ま忌ましい芳姫が入内するまで、まだしばらくある。目を閉じて惟彰の背に手を回すと、唇をかすかに開いて濃姫は熱い吐息をもらした。

 
(c)渡辺キリ