濃姫の女御入内の準備のため、東宮妃入内が間に合わなかった三の姫は、行儀見習いのためと女御入内について内裏へ上がっていた。花宴の後、弘徽殿の北に位置する登花殿を仮住まいにしていた三の姫は、琴や和歌を習いながら内裏での作法を身につける中、時々、自分に文をくれたあの男のことを思い出してはため息をもらした。
先の宴でも、どこにいるのかちっとも分からなかったわ。
右大弁なら殿上人だから、内裏の宴にはいるはずだと栄も言っていたのに。
三の姫付きの女房は、あの年嵩の女房以外は全員行忠邸に残されていた。自分が東宮妃として入内することになったら、栄も連れて行けるかしら…。琴を弾いていた三の姫は、ふと視線を伏せてまた息をついた。
自分の夫となる東宮はかろうじて内裏の女房に教えてもらったものの、新主上に比べると見劣りがして、どこか暗い目をしているような気がした。姉上も主上とは上手くいってないというけれど、私の方はもっと前途多難だわ。目を伏せたまままた琴の弦を弾くと、三の姫は身を起こして琴の爪を外した。誰か、ここが難しいから弾いてみせてちょうだい。三の姫が頼むと、内裏で三の姫付きになった若い女房が爪を受けとって続きを弾きはじめた。
こんなものなのかしら、入内なんて。
花宴の時は確かに豪勢で綺羅綺羅しくて、興奮してしまったけど。ああやって宴を楽しんだり和歌を読んだりして楽しんでいる内に時が過ぎれば、それでいいのかしら。
「やっぱりもういいわ。少し一人にしてちょうだい」
「それはなりませんわ、内裏で姫さまをお一人にするなど」
「じゃあ、一人だけ残って後は下がってちょうだい」
ムッとして三の姫が言うと、年嵩の女房以外は自分の局へ下がっていった。実家も窮屈だと思っていたけれど、ここに比べればゆるゆるだわ。脇息にもたれて三の姫がぼんやりと庭を眺めると、黙っていた年嵩の女房がふいに三の姫に耳打ちをした。
「姫さま、あれから栄を通して、右大弁さまよりお文をいただいておりますのよ」
「え?」
ドキンとして三の姫が振り返ると、年嵩の女房は頷いて懐から結び文を取り出した。私が内裏へ来ていることはご存じなのかしら。三の姫が文を開きながら尋ねると、年嵩の女房はご存じですよと答えて笑った。
「行忠さまの目の届かない内裏の方が、かえって三の姫さまにお目にかかる機会があるかもしれぬと、喜んでおられました。花宴では馨中将さまの次に舞を舞われたそうでございます」
「そうなの? あの方が…」
馨中将の舞に目を奪われたおかげで、次に舞った男のこともよく覚えていた。柔和で小柄な馨君に比べると背が高く、がっしりとしていて男らしかった。当世風とは言えないけれど、嫌な感じではなかったわ。いつも視線を伏せておられた春宮さまに比べれば、立派な姿をしていた。
「…そうなの」
文に視線を落としながら、三の姫はもう一度呟いた。文には前よりも一層、情熱的な歌が書かれていた。頬を赤く染めた三の姫の様子を窺うと、年嵩の女房はお返事はいかがなされますと小声で尋ねた。
「栄にも文を書きたいわ。薄紙をお願い」
潤んだ目で年嵩の女房を見上げると、三の姫はまた庭へ視線をやって右大弁の舞をぼんやりと思い出した。あの方が私を思っておられる。硯箱と料紙を持って来た女房にありがとうと声をかけると、三の姫はまだ幼さの残る手で墨をすり始めた。
三の姫の文は栄を介することなく、右大弁の元へ届けられた。これまでのように素っ気ない文面ではなく、三の姫の心の揺れが歌にも表れていた。その結び文を懐に忍ばせ、足音を立てないように静かに右大弁は静かな内裏の孫廂を進んでいる。
いざとなれば、女房に会いに来たと言えばいいだけのこと。
いつものように腹を据えて、右大弁はほとほとと妻戸を叩いた。私だ。低い声で囁くと、妻戸が開いて年嵩の女房が平伏した。
「お待ち申し上げておりました…右大弁さま。本当に三の姫さまをただ一人の正室と大切に扱って下さいますのね?」
「無論だ。私には雲の上のようなお人。行忠さまに話がつけば、すぐにでも内裏を下がらせて所露をしようぞ」
忍び声で囁くと、右大弁は誰にも見られない内にと妻戸の内側へ滑り込んだ。そなたはここに控えておれ。ニヤリと笑って妻戸の掛け金をかけさせると、右大弁は静かな室内へ足を踏み入れた。
…三の姫か。
すうすうと健康的な寝息をたてて、御帳台の中で三の姫は眠っていた。まだ十四歳のあどけない寝顔で右大弁が入って来たことにも気づかず、起きる気配もなかった。格子を下ろした真っ暗な中では三の姫の顔は右大弁からは見えず、ただ御帳台の白い布がぼうっと闇の中で浮かんでいるように見えた。手探りで進むと、その脇へ膝をついて右大弁は低い声で囁いた。
「三の姫さま…三の姫さま」
「…なあに」
まだ寝ぼけたような声が上がって、右大弁は笑いを堪えた。まだ子供らしい声をしておられるのだな。俺のような男が触れても構わぬのだろうか…ふと浮かんだ考えに、右大弁は伸ばしかけていた手を引っ込めた。箱入りの姫など、今まで相手にしたこともない。
「三の姫さま、お目覚めになって下さい」
その声にようやく目が覚めたのか、三の姫は驚いて身を起こした。どなた、と声をかけようにも、身が震えて声が出なかった。小山のような黒い影が見えて、三の姫が誰か…と声を上げると、右大弁は焦って三の姫の体を抱きとめ口を塞いだ。
何と軽いお体なのだ。
驚いて右大弁が物も言えずにいると、右大弁から離れようと三の姫はもがいた。身を乗り出した三の姫を後ろから抱いて、右大弁は懸命に囁いた。
「三の姫さま、私です。私は伴義蔵…右大弁でございます。あなたに恋い焦がれ、こちらへいらっしゃると聞いていてもたってもいられずに参りました」
「え…」
今度は三の姫の方が驚いて振り向いた。髪の香りがふわりと右大弁の鼻先に届いた。胸が痛いほど鼓動を打っていた。それは三の姫の方も同じで、これまで男の手に抱きしめられたことのなかった三の姫はかあっと頬を赤く染め、高鳴る鼓動を感じながら暗闇に目を凝らした。
「なぜここに…いけません。私は春宮さまの妃となる身。あなたがここにいることが分かれば、父が許しませんわ」
まだまだ子供と侮っていたのに、はっきりとした高い声で言った三の姫の言葉に驚いて、右大弁は思わず力を緩めた。その腕から逃れて、三の姫は単衣に袴姿で御帳台の外へ這い出た。そのままお帰りになって。三の姫の声を暗闇で辿ると、伴右大弁はお待ち下さりませと三の姫に近づいた。
「元より、行忠さまから咎めを受ける覚悟でございます。東宮妃となるお方と分かっていながら、心はあなたに惹かれてどうしようもありません…三の姫さま、どうか私の物になると…」
用意してきた言葉は、スラスラと出てくるはずだった。なのに最後の言葉を言いよどんで、それから右大弁はふいに三の姫の単衣の袖をつかんだ。正面から抱きしめると、柔肌が腕に吸いつくような気がした。強い力に、三の姫は息をのんでぼんやりと右大弁の直衣の背をつかんだ。
この方は、こんなにも私のことを思って下さっている。
内裏へ忍ぶなど、誰に見咎められるか分からない危険なことなのに。
「右大弁さま、本当に…私を?」
恐る恐る三の姫が尋ねると、右大弁はそっと顔を上げて三の姫の長く豊かな髪を梳いた。何度も指で梳いて、それからお慕いしていますと呟いた。頬を傾けて三の姫のまだあどけない唇を吸うと、右大弁は荒々しく三の姫を床に横たえた。止められぬ。こんなはずじゃなかった…もっと優しく絡めとるつもりだったのに。
「…痛!」
のしかかられて痛みに顔を歪め、三の姫は思わず声を上げた。その声に右大弁は無意識に体をずらし、髪に触れていた手を滑らせて懐に差し入れた。右大弁の大きな手が、まだ小さな乳房に触れてそのまま胸元をはだけた。初めて大人の男に触れられる恐れと、胸に芽生えた右大弁への熱い不思議な感情に翻弄されながら三の姫はゆっくりと目を閉じた。
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