玻璃の器
 

 三月になると、芳姫と四の姫の入内の準備で忙しくなった。
 近衛中将となった馨君は、主上である惟彰とは顔を合わせても、梨壺にいる水良とはほとんど会うことはなかった。こうしている内に、忘れた方がいいのかもしれない。ぼんやりと廂から清涼殿の庭を眺めて、馨君は小さく息を吐いた。
 惟彰が主上となってから、惟彰からのお召しの数が増えた。
 夜ではないとはいえあまりにも何度も声がかかり、ついには馨中将の宿直所は清涼殿になるやもしれぬと殿上人の間で噂が立った。芳姫の御入内が卯月まで延びたせいで、兄上の馨君をお召しになって寂しさを紛らわせているのだろうと最もらしい理由で人々の噂が落ち着く頃、惟彰は人払いをした。
「浮かない顔をしているな…さぞかし私を恨んでいることだろう」
 ふいに言われて、馨君は顔を上げた。それまで黙って庭を眺めていた自分に気づくと赤くなって、いえ…と呟いた。廂に控えた馨君に碁の相手をするよう命じると、惟彰は立ち上がって渋る馨君の手を取った。
「水良も元気がないようだ。会えぬ日を憂いておるのか」
「そうではございません…もう終わったことでございますから」
「終わったと申すのか」
 馨君の手を引っ張って立たせると、惟彰は自分で碁盤を運んで馨君の目の前に置いた。そなたとあたったことはなかったな。そう言って碁石を渡すと、惟彰は先に打ちなさいと馨君を促した。
「…私がこうして憂いた顔をできるのも、あなたさまの前なればこそ…それは感謝しております」
 力なく言って石を打った馨君をチラリと見て、惟彰も返し手を打った。パチリ、パチリと石を打つ音だけがしばらく響いた。馨君のことだ、どうせ無理に笑っているのだろうな。しばらく考えてから碁石を打つと、黙ったまま鎮座している馨君を見て惟彰は呟いた。
「そなた、終わったと申したな」
「…」
 目を伏せた馨君に、惟彰はなれば…と呟いて馨君の打とうとした石ごとその華奢な手を握った。驚いて馨君が顔を上げると、惟彰は馨君から目をそらしたまま言った。
「私なら、そなたを悲しませぬ。そなたがまだ春宮を思っていても私は構わぬ」
「主上」
「おかしいな…そなたを先に見初めたのは私だったのに、気づいたらそなたは春宮をずっと見ていた。私が芳姫を娶ったせいか、私が春宮だったためかと悩んだけれど…そうじゃなかったんだな」
「…」
「私は馨君、そなたが好きだよ…そなたが今、水良とは終わったと申すのなら…改めて私のことを考えてほしい」
「主上…」
 手を握られたまま、振りほどくこともできずに馨君は目を伏せた。惟彰の優しい声は心に沁みた。けれど…俺はまだ。
 花宴の最中、何度も水良を見た。その度に、決して視線を上げようとしない水良に絶望的な何かを感じた。惟彰の所望で舞を舞った時も、ただ少しでも優雅に舞って水良の視線を自分に向けさせようと、そればかり考えていた。そのためなら今、妖しの者に取り憑かれても構わぬと。
 そんな邪念を抱いた俺を、水良が見てくれるはずがない。
 終わったのだ…水良とのことは。あの、水良が公卿に取り囲まれ、清涼殿へ向かった夜に。共にいるという誓いを守れなかったあの夜…終わったのだ。
「…申し訳…ござ…」
 言いかけて声にならずに、馨君はただ首を横に振った。ただただ恐れ多いことでございますと答えて平伏した。水良と終わったからと言って、なぜおいそれと主上を愛することができよう。
「…よい。すぐに返事がもらえるとは思っておらぬ」
 脇息にもたれて呟くと、惟彰は頭を下げた馨君の形のいい耳をぼんやりと眺めた。それから殊更に明るい声で、続きを打ってくれと言って扇で碁盤を指した。

 
(c)渡辺キリ