玻璃の器
 

 俺の心には鬼が棲んでいる。
 こうしている時も、口で言うように立派な東宮妃となれるようになどとは思っていない。ただ、左大臣家の体面のために色々なことをお教えしているに過ぎぬ。古今は覚えましたか、碁は打てるようになりましたかと四の姫に優しく声をかけながら、心は水良の元へ飛んでいる。
 水良が妃を近づけるはずがないと、思っている。
 これが未練という物か…にこやかに内裏での花宴の様子を話しながら、馨君の心は冷えていた。ただあどけなく日中は女房たちと雛遊びをしているという四の姫に、今にも吹き出し身を覆いそうなほどの嫉妬を覚えていた。
「今、梨壺さまが東の対へお戻りですから、その間に内裏でのことをお聞きするとよいでしょう。梨壺さまには私からも、四の姫さまをよろしくお願いしますと言っておきますよ」
 ニコリと笑って馨君が言うと、四の姫がありがとうございますと固い声で答えた。それでは、私はそろそろ下がらせていただきます。そう言って平伏すると、馨君は女房を従えて西の対へ戻って行った。
 馨君の姿が見えなくなると、脇息にもたれずきちんと座っていた四の姫はふっと体の力を抜いた。四の姫さま? そばにいたお付き女房が声をかけると、四の姫は袖で口元を隠しながら恐る恐る言った。
「私…あの方が少し恐いわ」
「まあ、あの方とは馨君さまのことでございますの? あんなに優しい男君はそうそういらっしゃいませんことよ」
 おかしそうに笑いながら答えた女房に、何がとは言えないけれど…と呟いて、四の姫はため息をついた。
「笑っていらっしゃっても、何となく私、憎まれているような…どうしてかしら」
「四の姫さまは馨君さまにとってもお妹君に当たられる方。憎むだなんてとんでもないことでございますよ。いつもお忙しくていらっしゃるから、少しお疲れなのでございましょう」
「それならいいけど…」
 几帳越しに見た一瞬の表情が、こちらをにらんでいるように見えたわ。
 私、何かまずいことでもしてしまったのかしら…兄上さまは音に聞こえるほど穏やかなお人柄。私が余程いけないことをしたから、ああやって優しい言葉の端々に刺を感じるのだわ。
 馨君さまの言うような立派な東宮妃とならねば…。ふうとまた息をつくと、四の姫は開いたままだった古今和歌集に視線を落とした。私、覚えるのは苦手だけれど、馨君さまが覚えろと仰るなら頑張らなければ。
 素直な四の姫は、母北の方の緯子から女は通われる男に従うものと教わっていた。馨君や女房から内裏へ入るためにこうしろああしろと言われることも、内裏には顔も見たこともない自分の夫となる東宮がいるということも、何も不思議には感じていなかった。そしてそれが普通の貴族の姫の姿でもあった。なかなか覚えられない古今和歌集を目で追うと、少しでも馨君さまに気に入られなければと四の姫ははやる胸を両手で押さえた。
 一方、四の姫の所から西の対へ戻った馨君は、若葉に着替えを手伝ってもらいながら、萩の宮姫の元より届いた文をジッと眺めていた。
 そろそろ行ってやらねば。忙しいからという言葉ばかりで、向こうも不安に思っておられる。代筆の文だった言い訳もしたけれど…考えながらも気が重くてとても蛍宮邸へ向かう気になれず、袿を羽織って馨君は脇息にもたれた。
「文を取ってくれ。それと硯箱を」
 馨君が若葉に命ずると、若葉は黙ったまま萩の宮姫からの結び文を馨君に差し出した。若葉が硯箱を出している間に文を開くと、文面に視線を走らせて馨君は息をついた。
 萩の宮姫のことは嫌いじゃない。むしろ水良とのことがなかったら…心惹かれていたかもしれない。
 ただ、今…どうしても快い返事をすることができない。若葉が持ってきた料紙に今夜も行けなくてすみませんと書くと、歌を一首書き添えて馨君はそれを結んだ。
「これを萩の宮姫へ。父上が仰っていたが、芳姫の女御入内が済んだら冬の君の元服をするのだって?」
「そうみたいですわね。そろそろ冬の君さまもお年頃ですもの」
 ふふっと笑って、若葉は結び文を持って行きかけた。お年頃? 馨君がポカンとして尋ねると、若葉は戻って来て顔を覗かせた。
「冬の君さま付きの女房に聞いたんですけど、最近、女物の櫛を取り出しては眺めていらっしゃるんですのよ。何でもどこかの姫にいただいたとかで」
「冬の君が? まだ子供らしいお顔立ちをしておられるのに」
「それを言うなら、あなたさまだってお変わりありませんことよ。しょぼくれるにはまだお早うございますわ。まだ十六歳ですもの」
 ニコリと笑って、若葉は文を持って行ってしまった。心配してたのかな。ふうと息をついて苦笑すると、馨君は硯箱を片づけながら冬の君がねえと呟いた。

 
(c)渡辺キリ