玻璃の器
 

 梨壺の廂からぼんやりと庭を眺めていた水良は、衣擦れの音をさせて孫廂に平伏した朝顔に気づいて顔を上げた。
「今日はどのような花をと、文使いが尋ねておりますが」
「そう…そうだな。あやめなどどうだろう。二、三ほど摘んで、枯れぬよう気をつけて若葉に渡してくれ」
「かしこまりました。あの、春宮さま」
「何?」
 二条の方の喪に服するために馨君と同じような濃い鈍色の直衣を着ていた水良は、母屋に入って放り出してあった文を拾い上げた。それは新しく内裏へ上がった四の姫の手で、丁寧に折り畳んで文箱へ入れている水良を見上げると、朝顔は重ねて尋ねた。
「あの、春宮さま。お文は届けなくて構いませんの」
「誰に? 藤壺へ?」
「違いますわ、馨君さまにですわよ。もし気分が優れぬなら、代筆をさせましょう」
 朝顔が心配気に言うと、水良はいいんだと答えて四の姫へ文を書くために硯箱を手に取った。私がやりましょう。そばに控えていた別の女房が言うと、水良は嫌そうに顔をしかめて、それから四の姫の所へ直接行ってくるよと女房たちに声をかけた。
 水良が出て行くと、一緒に参りましょうと朝顔が言った。庭先で遊んでいた殿上童に声をかけて文使いへの伝言を頼むと、朝顔はすでに先へ行ってしまった水良を追いかけた。
「春宮さまは、四の姫さまがお気に入りと見えて、入内なされてから一日と日を置かずに四の姫さまを訪ねておいでですわね」
「まるで雛人形のように似合いだと、三条邸の北の方さまも皇太后さまも喜んでおいでで。何でも行忠さまの三の姫さまは、内裏を下がられてから入内の日取りも決まらず、何やら臥せっておいでとかいう噂ですもの。今更、他の妃が続いて入内遊ばされた所で、春宮さまのご寵愛を受けることができるのやら」
 女房たちにそんな噂をされていることも知らず、ひょいと顔を出して水良はニコリと笑った。二条の方とはほとんど顔を合わせたことのなかった四の姫は、服喪で鈍色の袿を羽織っているものの、芳姫や惟彰のように悲しみに暮れることもなくいつもの通り女房たちと遊んでいた。こんにちは。そう言って水良が御簾をめくって母屋に入ると、相変わらず雛遊びをしていた四の姫はパッと顔を輝かせて水良を見上げた。
「春宮さま! 今、小納言がいけないことをしたのよ」
「まあ、姫さまったら」
 雛遊びに夢中になって、顔を真っ赤にして雛を手に取った四の姫は、水良を見上げて、だって飾りを取ったのよと訴えた。その子供っぽさがおかしくて、目を伏せて水良が女童の持っていた雛の飾りを受けとると、喧嘩しちゃ駄目だよと言って四の姫に飾りを返した。
「今日も三条邸なの? これは誰?」
 四の姫が持っていた雛の頭をなでて水良が尋ねると、四の姫は私なの…と赤くなって答えた。これは父上で、これは北の方さまなの。そう言って他の人形を指差した四の姫に、水良は目を細めてそう…と呟いた。
「それでは、これは?」
「これは…兄上なの」
 恥ずかしそうに言った四の姫に、水良は首を傾げた。馨君の周りには小さく作った漢籍や絵巻物が散っていて、水良が何をしていらっしゃるのと尋ねると、四の姫はあどけない表情で水良を見上げた。
「あの、私が覚えが悪いので、兄上がお怒りになっている所なの。実際には、お怒りにならないのよ。でも、本当は怒りたかったんじゃないかと思って」
「…馨君が?」
 水良が目を伏せて、馨君に模した雛を優しい手つきで撫でた。お怒りではなかったのよ。慌ててもう一度言い訳をすると、四の姫は水良の手から雛を取り上げた。
「私、そう言えば兄上からあまり雛遊びばかりしないで、絵なども描きなさいと言われたのだったわ。春宮さまは絵がお好きだし、あなたの絵はお上手だから一緒に絵をお描きなさいって」
「そうか…馨君がそんなことを。馨君は真面目な所があるから、私の気に入るようにそう言ってくれたのだろうね。でもいいんだよ、好きなことをして遊びなさい。こうしてお話ししてくれると、私も楽しいよ」
 一瞬、目をそらして水良は四の姫の頭をなでた。二歳しか変わらないのに、まるで娘でも持ったかのような気分だな。
 馨君は、俺がこの四の姫を抱いたと思っているだろうか。
 実際には、隣ですやすやと眠る四の姫を眺めているだけなのに。
 それすらもう…馨君には関わりのないこと。馨君のためにと、自ら決めたこと。
 苦笑して四の姫の髪をなでると、また雛遊びを始めた四の姫の手に握られたお内裏さまを水良はぼんやりと眺めた。雛遊びの相手をする水良を見て、四の姫のお付き女房たちはみな、本当に似合いの夫婦だことと囁き合って目を細めた。

 
(c)渡辺キリ