玻璃の器
 

 五月に入ると完全に床を離れて、もう二度と起き上がれないかもしれないと言っていた馨君も、本堂で修行する僧と語り合うまでに回復した。
 今日は都へ戻るという日の朝、夏物に変わっても鈍色はそのままで、馨君は仕度を済ませて牛車が来るのを廂に座ってぼんやりと待っていた。何度も主上や藤壺から文をいただいたのだから、戻ったら真っ先に伺わなければ。考えていると、旅装の若葉がやって来て、手に持っていた朝顔を馨君に差し出した。
「今日はいらぬかと思ったのですけど、折角ですのでお目にかけようと。朝露を受けた朝顔でございます」
 手折ってそのまま持って来た朝顔を見て、馨君は目を細めてそれを受けとった。ありがとう。そう言って朝顔を何となく眺め、それからふと若葉を見上げて馨君は尋ねた。
「この…いや、何でもない」
 言いかけてやめると、馨君は朝顔を大事そうに手で包んだ。
 牛車でゆっくりとあちこち回りながら一日の行程をかけて都へ戻ると、馨君はそのまま三条邸へ入った。中門から東の対へ入った所で、墨染めの衣を着た双海がバタバタと駆けて来て馨君の前で平伏した。
「若君、お帰りなさいませ! お会いしとうございました!」
「ありがとう、双海。私も双海に会いたかったよ。留守の間、世話になったね、ありがとう」
 袖の内で若君…と涙声をもらした双海に、馨君は寝殿まで先導しておくれと頼んだ。寝殿でも馨君の帰りを待っていた女房たちがズラリと簀子に平伏して、お帰りなさいませと馨君に声をかけた。
「長の間、留守にして申し訳ありませんでした」
 馨君が母屋に入って、座るのももどかしく言うと、先に上座に座していた兼長は目を細めて頷いた。すっかり顔色もよくなって。そう言ってニコニコと馨君を見つめる兼長に、馨君もニコリと笑ってご心配をおかけしましたと答えた。
「兄上! お帰りなさいませ!」
 パタパタと足音が響いたかと思うと、すぐに冬の君が顔を出して下座で平伏した。冬の君。馨君が呼ぶと、冬の君は面を上げて、お帰りをお待ちしておりましたと答えた。
「喪が明けたら元服をと言っておったのだが、一の君が戻るまでは考えられぬと、見ていてハラハラするほど憔悴しておってな。ともかくお前が戻ってよかった。主上からも公卿のみなみなさまからも何度もこちらへ見舞いの品が届いて、西の対の庭に溢れてしまったほどだ」
「本当ですか。早速、お礼の文を書かねば」
 すっかり元気になった様子ではきはきと言うと、馨君は本当に戻ってきてよかったと目を細めた。
 その日、話が尽きないのを病み上がりだからと女房に諌められ、西の対に戻って床についた時にはもう亥の刻を回っていた。二条の方を亡くした悲しみはまだ心に残っていたけれど、病の床についた時にもらった見舞いの文に心を打たれた。烏帽子を外して衾に潜り込むと、灯台の火を消そうとしていた双海に馨君は話しかけた。
「留守の間、変わったことはなかった?」
「若君さまがいらっしゃらなくては、いつもと同じとは言えませんわ」
「もう、そうじゃなくてさ」
 唇を尖らせて言うと、馨君は仰向けに寝転んで、火はつけておいてくれないかと頼んだ。そう言えばそうでしたわね。慌てて手に持っていた貝を置くと、双海はおやすみなさいませと平伏した。
「あ、行く前に」
「え?」
「そこに置いた朝顔を取って」
 馨君がそう言って二階厨子を指差すと、双海はまるで子供に戻ってしまわれたみたいですわねと言って笑った。もう花が閉じてしまった朝顔を手に取って寝転んだままの馨君に渡すと、馨君はそれを両手で包んでおやすみと双海に声をかけた。
 まだ辛い。けれど…少しだけ、元気が出たような気がする。
 水良。心の内で名を呟くと、馨君は朝顔の花を手で包んだままそっと目を閉じて眠りについた。

 
(c)渡辺キリ