玻璃の器
 

 次の日、参内した馨君は殿上人たちから次々と声をかけられ、ついには顔も知らぬ文武官たちからも病が治ってよかったなと肩を叩かれた。まだ痩せていかにも病み上がりといった風情だけれど、冠直衣をすっきりと着こなしていて顔色はよく、馨君の頬は以前のように赤く染まっていた。
 長く休んだ後の出仕だからと、早々と退出するよう上官から促された馨君は、そのまま惟彰と芳姫に挨拶に行こうと内裏へ向かった。途中で声をかけられて振り向くと、時の中将が追いかけてきて馨君の隣に並んだ。
「時の中将どの、先だってはお見舞いの品をありがとうございました」
 歩き出しながら馨君が言うと、時の中将はこちらこそ見舞いに行けなくてすまなかったと照れたように笑った。愛宕までは無理でしょう、お忙しいのだし。馨君がそう言って笑うと、そうじゃなくて…と首筋をかいて時の中将は答えた。
「実は、鳴が二人目を懐妊してさ。一の姫もまだ赤子だというのに、年子でできたのだ」
「え、本当ですか。おめでとうございます」
 パッと表情を輝かせて馨君が言うと、時の中将はありがとうと笑った。
「私は喪が明けるまで伺えないけれど、すぐに祝いの品を届けますよ」
「いや、生まれるまではやはり分からぬから」
 ニコニコと言った時の中将に、そうか鳴どのに二人目がと呟いて、馨君は内裏の門をくぐった。女房に藤壺への先触れを頼むと、馨君たちは空いた一室で女房が戻るのを待った。
「お前もとうとう姉上の所へ通ったのだって? 文をもらっていると聞いた時には半信半疑だったけれど」
 時の中将が小さな声で尋ねると、馨君は目を伏せてええまあ…と呟いた。照れた様子もなくただ目を伏せたままの馨君の横顔を見ると、時の中将は腕を組んで言葉を続けた。
「お前も運が悪かったな。せめて二条の方が亡くなるのが二日遅かったらなあ。所露さえしてしまえば後は何とかなっただろうに」
「そうだな。でもしょうがない。あちらに穢れを持ち込むわけにはいかないし」
「まあな…喪が明けたらまた通ってくれるのだろう? 義兄上」
 時の中将がポンと肩を叩くと、馨君はようやくぱあっと赤くなった。そう言えばそうなんだな。改めて気づいたように馨君が尋ね返すと、呑気だなあと言って時の中将は笑った。
 二人揃って藤壺の廂に通されると、座に着くか着かないかという間に兄上?という芳姫の声が響いた。時の中将どのがおられますよと別の女房の声もして、馨君と時の中将は顔を見合わせて笑いを堪えた。
「いいのよ。梨壺では時の中将どのともお話ししていたんだもの。時の中将どのも未来の大内を背負う大切な方、代返という訳には参りませんわ」
 そう言って、几帳の奥にいた芳姫は、今にもそこから飛び出さんばかりの勢いで、兄上お加減はいかがなの?と重ねて尋ねた。もうよくなりましたよ。馨君が苦笑して答えると、疑わしそうに黙って芳姫はため息をついた。
「兄上がお倒れになったと聞いた時は、私の胸の方が潰れそうだったわ。兄上、どうぞご無理はなさらないで。嫌なことがあれば嫌だって仰っていいのよ」
 諭すような芳姫の言葉に、ドキンとして馨君は御簾の内を見た。確かに、馨君は真面目ですから、仕事は何でもこなしておしまいになる。そう言った時の中将にホッとして馨君は足を崩した。
「藤壺さま、お見舞いの品々をありがとうございました。三条邸に戻るまでは知らなかったものですから、お礼が遅れて申し訳ございません」
「こちらこそ大したものは贈れず、またお見舞いにも伺えず申し訳のないことでしたわ」
「とんでもない。そのお心だけで…」
 目を伏せて馨君がもう一度平伏すると、ふいに奥の襖が開いて楽子が顔を出した。まあまあ、一の君! パアッと表情を輝かせて言うと、楽子は御簾内の芳姫の隣にきちんと座って頭を下げた。
「本当にご快癒なされてよかったこと。母は心配で、この遠い内裏より毎日毎晩あなたの病がよくなるようにとおばあさまにお祈りしていたのですよ。おばあさまがあなたのためにお願いを聞いて下さったのね」
「ええ…おばあさまの夢を何度も見ました」
 馨君が答えると、楽子はやっぱり…と袖で口元を隠して涙ぐんだ。時の中将と顔を見合わせ、どうかしたのですかと馨君が尋ねると、楽子は芳姫と目を合わせてから口を開いた。
「おばあさまが亡くなられる前、あなたのことが心配だと何度も仰って、私やお父上さまに一の君をよろしく頼むと言いおいて息を引き取ったそうなの。病の床についてから、お父上さまを初め、多くの方々にお文を書いていらしたそうなんだけど、あなた宛のものは文箱に入れて、固く紐を結んで他の誰にも見せぬようにと」
「え…本当ですか」
 馨君が身を乗り出して尋ねると、楽子は頷いて、殿に言付けておいたのにとため息混じりに答えた。夕べはずっと留守中のことを話しておりましたから。馨君が取り繕うように言うと、楽子は扇を開いて言葉を続けた。
「三条邸へ戻られたら、お父上付きの女房に聞いてごらんなさいませ。そうね、浜風なら知っているわ。私から聞いたと言えば父上が戻らずとも出してきてくれるでしょう」
 そう言って楽子が心配げに馨君を見ると、馨君は分かりましたと答えてから、恐らく出仕や内裏でのことを書いて下さったのでしょうと付け加えた。おばあさまからの文。おばあさまは俺に何を書き残されたのだろう。

 
(c)渡辺キリ