玻璃の器
 

 その後、惟彰からも召されて長々と清涼殿で語り合った馨君は、美しい月の見える頃になってようやく三条邸へ戻った。
 西の対ではなく寝殿に入ると、浜風を呼んで馨君は二条の方から送られた文箱を受けとった。それを自分で持ってそのまま西の対へ戻ると、袿に着替えてから人払いをして、馨君は固い結び目を解いた。ガサガサと音を立てて文を開くと、中には病を得て弱々しいものの懐かしい二条の方の手が流れるように並んでいて、馨君は涙ぐんでおばあさまと呟いた。
 長い文に目を通すとほとんどが馨君に対する祝福とお礼の言葉で、涙が一筋頬を伝って馨君は慌てて袖で涙を拭った。泣いてばかりでは余計におばあさまに心配をおかけしてしまう。グッと涙を堪えて息を吐き出すと、続きを読んで馨君は目を見開いた。
 そこには最後、馨君が二条の方を訪れて、水良の母、前麗景殿の人となりを尋ねたことが書かれていた。私からはお教えすることはできません。ただ自分のためではなく春宮さまのために知りたいというのなら、結び文を持って尼御前さまの所へおいでなさいと書いてあった。文箱にはもう一つ、小さく結んだ文が下に重ねて入っていて、馨君はそれを取り上げ、文の続きに視線を走らせた。
「その文には、私から尼御前さまに宛てて、一の君は信用できる人柄ゆえ、全てをお話し下さるようにと書いてあります。その言葉に自負を持って臨めるのなら、この文を持って尼御前さまの元へ行きなさい。ああ、私があなたの代わりに、その責を負う身となれればよかったのに…」
 文面を読むと、馨君は小さな結び文を手に取ったままぼんやりとそれを眺めた。文の最後には、幼子を負うて越えなば逢坂の関と昔の名を呼びにけりと書いて結ばれていた。負う坂の責…おばあさまはやっぱり何かご存じだったのだ。
「双海!」
 文を折り畳んで文箱に入れると、それに元の通り紐を固くかけて馨君は双海を呼んだ。西の対の東廂に控えていた双海が、声に気づいて慌ててやって来た。お呼びでございますか。双海が尋ねると、馨君は急いで熾森を呼んでほしいと頼んだ。
「お呼びと伺いましたが」
 宿直のために家に帰らず三条邸に留まっていた熾森が、廂に控えて平伏した。文箱を見えないように自分の後ろへ押しやると、馨君は脇息から身を起こして尋ねた。
「熾森は尼御前さまのことを何か知っているか。今、住んでいる所などは」
「尼御前さまと言えば、今春宮さまの伯母上でございますな。住んでおられる宮は桃園にあるとか」
「おばあさまからの文を預かっている。こちらから出向いて明日にでも会いたいんだ。明日、参内の前にお前、知らせに行ってくれないか」
「よろしゅうございますが…尼御前さまはお亡くなりになったと噂で聞きましたが」
が」
「…え!?」
 熾森の言葉に驚いて馨君が身を乗り出すと、廂に控えていた熾森は馨君を真っ直ぐに見て言葉を続けた。
「若君さまが愛宕で臥せっておられる間に、あちらも勤行の最中に急にお倒れになられて、そのままお亡くなりになられたそうでございます。昨日、内裏での噂を耳にした時に聞いた話で、春宮さまはお父上以外の色濃く血を分けたお身内が亡くなられたので気が塞いでおられるとか」
「…本当なのか。いや、噂では分からぬ。お前、明日桃園へ確かめに行ってくれ。尼女房たちが誰か残っているかもしれない。尼御前さまや前麗景殿さまが内裏におられた頃に女房勤めをしていた者を探して、話を聞きたいからと引き止めておいてくれ」
「若君さまはどうなさいます」
「退出したらすぐに行く。よいか、くれぐれも散り散りになる前に引き止めるのだ」
 慌てたように言った馨君を見て、熾森はまた今春宮さまの事柄かとため息をつき、それからかしこまりましたと平伏した。尼御前さままで亡くなられたなんて…。口元を手で覆って脇息に頬杖をつくと、馨君は考え深げに眉根を寄せてジッと二条の方の書いた文を思い返した。

 
(c)渡辺キリ