玻璃の器
 

 出仕して近衛中将として忙しく仕事をこなした馨君は、折りを見て梨壺へ向かった。
 水良の方が尼御前さまから何か聞いているかもしれない。それとも文を。そう考えて梨壺の女房に先触れを頼んでいると、朝顔が馨君を見つけてパッと表情を輝かせた。
「馨君さま! お久しぶりでございます!」
「ああ、朝顔。元気そうだね」
 馨君が気づいて顔を上げると、孫廂に平伏して朝顔は心配げに馨君を見上げた。
「馨君さまは病を煩われたとか。私などがお見舞いの品を差し上げてもと控えておりましたが、参内なさった僧正さまにいただいた仏さまに毎夜手を合わせて、馨君さまがご快癒なさいますようにとお祈り申し上げておりました。ああ、本当に、本当によかったですわ」
 涙ぐんだ朝顔に、ここにも心配をかけてしまったかと身を屈めて馨君はすまないと呟いた。春宮さまはと馨君が尋ねると、朝顔はニコリと笑って答えた。
「今はご自分の間で絵を描いておいでです。でも、馨君さまでしたら構いませんわよ。私が聞いて参りましょう」
「頼む」
 そう言って、他の女房が作った座に座って待っていると、バタバタと騒がしい音がして、手に筆を持った水良が廂に顔を見せた。馨君。呆然と呟いた水良を見上げると、馨君は苦笑して答えた。
「真昼の妖しでも見たかのような、そんなお顔でございますね」
「バカなことを言うな。馨君…無事戻って来たんだな」
「ご心配をおかけいたしました」
 馨君が深く頭を下げると、水良は目を細め、紐で縛っていた狩衣の袖を解いた。すまないが筆を洗っておいてくれ。そばにいた女房に頼むと、馨君に中へ入るように言って水良は母屋に置いた角盥で手を洗った。
「…本当に、久しぶりだ」
 目を細めて、水良は下座に腰を下ろした馨君を眺めた。その目は以前と同じで、馨君は息苦しくなって思わず目を伏せた。愛宕で臥せっていたのだって? 水良が脇息にもたれて尋ねると、馨君はようやく顔を上げて頷いた。
「少し体調を崩して…でも、もうすっかりよくなりました」
「まだ痩せているじゃないか。誰か果物を持って来ておくれ」
 水良が言うと、馨君は中腰になって慌ててどうぞお構いなくと手を振った。女房たちが次々と団喜や桃枝(とうし)、山桃などを高坏に盛って運んできた。いいと言うのに。真っ赤になって馨君が顔を伏せてしまうと、水良は女房たちにありがとうと言ってにこりと笑いかけた。
「梨壺のことが気になっているのだろう。お前、真面目だもんなあ」
 片膝を立てて桃枝に手を伸ばした水良に、馨君はええ…と口ごもった。忘れてた、四の姫の機嫌伺いに行くこと。俺も調子がいいなと目を伏せて馨君も目の前の団喜に手を伸ばした。
「春宮さま、あの…少しお人払いを」
 団喜を一つ食べてから馨君が視線を上げて頼むと、え…と言葉を詰まらせて水良は馨君を見つめた。違う違う! 思わず青ざめて馨君が膝をつかむと、水良は聞いての通りだと言って女房たちを下がらせた。
 最後に朝顔が失礼いたしますと言って下がると、二人で黙り込んで目を伏せた。初夏の風がふわりと母屋に吹き込んで、御簾をわずかに揺らした。御簾を上げましょう。そう言って馨君が立ち上がると、水良も立ち上がって構わないからと言って馨君を見つめた。
「あの…本当に、元気になってよかった」
 その視線を感じるだけで、体の奥が熱くなった。うん。そう呟いて馨君が目を伏せると、真っ赤になった首筋が露になった。御簾はいいから、座って。水良が言うと、馨君は黙ったまま円座に腰を下ろした。
「馨君…何だかもう随分経ってしまったような気がするけど、ちっとも変わらないんだな」
 水良を直視できずに顔を背けたままの馨君の横顔を見て、水良は茵に座った。そのままずっと見つめていたい気持ちを払うように、水良は目を伏せてまた桃枝に手を伸ばした。
「話があるのでは」
 水良が尋ねると、馨君は弾かれたように顔を上げてええ…と口ごもった。何と言っていいのか一瞬迷って、それから馨君は水良を見上げた。
「この度は尼御前さまがお隠れ遊ばしたそうで、御愁傷さまでございました。臥せっている間で知らぬこととはいえ、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません」
 そう言って頭を下げると、水良はああ…と呟いて馨君の巻纓を見つめた。茵から降りて、平伏した馨君の前に膝をつくと、面を上げよと言って水良は馨君の顔を覗き込んだ。
「俺にとっても伯母上に当たる方…文は交わしたけれど、ついに一度もお目にかかることができなかった。いつかは内裏へ召して母上の思い出話をと思っていたのだけど」
 水良が言うと、馨君は顔を上げて目の前の水良の顔を見た。
「春宮さまが内裏へお戻りになられる前」
 馨君は水良の耳元に囁いた。水良が馨君の表情を見ると、一瞬、目を伏せて馨君はまた水良を見上げて続けた。
「私の祖母上、二条の方に前麗景殿さまの話を聞いたのです。前麗景殿さまには入内する前に恋しく思う方がおられたのではと。その時は何も聞けなかったのですが、おばあさまが亡くなった後、尼御前さまに話を伺うようにと文をいただいたのです」
 人払いをしていても誰が聞いているか分からないと、馨君は水良の耳元に小声で囁いた。水良がそれでと話を促すと、馨君は続けて水良を見上げ口を開いた。
「尼御前さまが、何かご存じなのではないかと思ったのですが…もう亡くなられたと聞いて」
「そうか…ちょうど、馨君が都へ戻る半月ほど前に亡くなられたのだ。それでは…もう話を聞くこともできぬか」
 がっかりしたように目を伏せて、それから視線を上げると、馨君と目が合って水良は赤くなった。馨君…。思わず低い声で名前を囁いて、水良はその束帯の袖をつかんだ。ビクンと震えていけませんと馨君が身を引くと、水良はその袖を強く引いて馨君の顔を覗き込んだ。
「すまない…本当に、すまなかった。お前が一番辛い時に共にいてやることもできなかった」
「春宮さま」
 瞳を揺らして馨君が水良を見ると、水良はジッと馨君を見つめた。そんな…謝らなければいけないのは俺の方なのに。水良の顔から視線をそらせなくなって、馨君はただ黙って首を横に振った。抱いても構わぬか。水良の声がして、馨君は思わず水良の腕をつかんだ。
 久しぶりの水良の体温は少し熱くて、馨君は水良の腕に抱かれて吐息をもらした。水良。名を呼んで目をギュッと閉じると、涙が目の端にじわりと浮かんだ。孫廂から入ってきた風は、ふわりと御簾を揺らしていた。どこかで誰かが話すざわついた声が聞こえて、馨君は水良の腕の中でふっと目を開いた。
「春宮さま…春宮さまには四の姫さまが」
 重い口を開いた馨君に、水良は我に返って馨君から手を離した。ごめん。そう言って水良が一歩下がると、馨君はその場に平伏して言葉を続けた。
「今日、退出した後、桃園へ向かうつもりです。どうしてもあなたさまがお知りになりたいと仰るのなら…けれど、あなたさまがもう割り切っておいでなら…あのことは秘して墓場まで持ってゆきましょう」
 馨君が言うと、水良はぼんやりと平伏したままの馨君を眺めた。
 俺の父上。
 まだどこかに生きているかもしれない、本当の父上。
「…馨君には面倒ばかりかけて、すまぬが」
 馨君の肩にそっと手を置いてすぐに離すと、水良はそう呟いてから口をつぐんだ。仰せのままに。馨君が言葉を続けると、よろしく頼むと付け加えて水良は愛おしそうに馨君を見つめた。

 
(c)渡辺キリ