玻璃の器
 

 芳姫の入内に続いて、四月の半ば頃に四の姫の東宮妃入内が行われた。
 ずっと四の姫の世話をしていた馨君は、年は近いながらも父親のような立場で四の姫の東宮妃入内を見守った。水良への思いは、心の奥底に無理矢理押し込めていた。ニコリともできずにただ麻痺した心で東宮妃入内を見守る馨君を見て、殿上人たちはさぞかし緊張しておられるのだろうと噂した。
 四の姫が梨壺に入るのを見届けると、馨君はその足で蛍宮邸へ向かった。今頃は水良と対面しているのだろうか…そんなことを考えるだけで、身が焼け付くようで辛かった。馨君の突然の訪れに驚きながらも、若い二人に年寄りが出ては野暮なことと、北の方は馨君を萩の宮姫の元へ直接案内するように命じた。
「先触れもなく訪れて、申し訳ございません」
 まだ固い声で馨君が言うと、私は構いませんのよと萩の宮姫が同じように緊張しながら答えた。以前のように几帳と御簾を隔てるのではなく、今夜は御簾内へ通され、萩の宮姫との間には几帳しかなかった。女房はすでに下がっていて誰もおらず、灯台に灯された火に几帳の端から零れた萩の宮姫の衣の裾が照らされていた。
「しばらくずっと忙しくしていて…訪れることもできずにおりましたが、今日、東宮妃入内が無事に済みましたので…肩の荷が下りましてございます」
 目を伏せて言った馨君に、萩の宮姫は扇の内からそっとその表情を見つめた。元気がないみたい…最近の文の調子で、忙しくて少し体調を崩されたのかと思っていたけれど。心配そうに馨君を几帳の隙間から見つめると、萩の宮姫は少し黙り込んで言葉を探してから尋ねた。
「馨君さま、東宮妃入内の様子はいかがでございましたか? ずっとお世話をしてきたのですもの、お疲れになったでしょう」
「ええ、でも…四の姫さまは素直なご気性で、以前から春宮さまにはおっとりとした方をと思っておりましたので、望みが叶ってホッとしております。藤壺さまの東宮妃入内の手伝いをしていたこともあって、今度は戸惑うこともなく準備を進められましたし…」
「それはおよろしいこと。四の姫さまのことは、我が邸でも評判ですのよ。本来なら佐保宮さまは東宮となられたかどうか分からぬ方、それが院の予定外のご退位で、主上に皇子がおらぬゆえに皇太子となられたのですもの…めでたいことですわ。佐保宮さまもお喜びでしょう」
 萩の宮姫が言うと、馨君は自嘲気味に笑ってええと答えた。それからしばらく黙り込むと、ふと顔を上げて馨君は几帳の奥を見透かすようにジッと見つめた。
「姫…私は、本当に姫をお慕いしているのです。あなたといると、本当にホッとするのです。萩の宮姫さま…私の室になってくださいますか」
 突然の言葉に、萩の宮姫は驚きつつもパアッと頬を赤く染めて目を伏せた。もちろんですわ、馨君さま。蚊の鳴くような声でようやくそれだけ答えた萩の宮姫に、馨君は立ち上がって几帳をつかんでそれをずらした。
 初めて面と向かって対面する姫の姿は、芳姫や絢子のように艶やかな美しさではなかったけれど、どこか気品に満ちて淑やかで、馨君は一瞬、ほうと息を吐いた。こちらを見上げる萩の宮姫は扇で口元を隠しながらも、蛍宮に少し似た優しげな目で馨君をジッと見つめていた。どうしよう…こんなにも冴え冴えと美しい方だったなんて。膝をついて萩の宮姫の手を握った馨君の顔が目の前に迫って、萩の宮姫は緊張で身を震わせながらも馨君から視線を外せずにいた。
 本当に、桜の精か…それとも何かの妖しのよう。
 今にもどこかへ行ってしまいそうな、そんな儚さ…私は何を考えているの。そのような不吉なこと…馨君の手を握り返すと、萩の宮姫は扇を落として両手で馨君の華奢な手を包んだ。ようやくお会いできましたのね。萩の宮姫が呟いて、馨君は目を伏せたまま、ええ…と呟いた。体が動かない。
 水良。
 水良、俺はまだお前を。
「…馨君さま、申し訳ありません。お召し物は身につけておいででございますか」
 ふいに妻戸が薄く開いた。馨君が顔を上げると、女房がおろおろとしながら平伏した。
「このような夜に申し訳ございません。馨君さま、ただいま三条邸より使いの者が参りまして」
「三条邸から?」
 思わず萩の宮姫と顔を見合わせて、それから馨君は続けよと声をかけた。慌てた女房はその場に平伏したまま、申し訳ございませんと再び言葉を続けた。
「二条の方さまがお隠れになられたそうでございます。三条邸の兼長さまが、これから喪に服さねばならぬ、そうなれば三日夜の餅も交わせぬと仰せで…急ぎ三条邸へ戻るようにと」
「おばあさまが亡くなられた!? まさか…」
 すぐに立ち上がると、馨君はそのまま行きかけてそれから振り向いて萩の宮姫を見つめた。お互いに青ざめたまま見つめ合うと、萩の宮姫はすぐに床に手をついた。
「馨君さま、まずは三条邸へお戻り下さいませ。私…今宵はあなたさまとこうして語らえただけで、満足ですわ。どうかすぐにお戻りになって」
「分かりました。このまま居続けてこちらの穢れになってもいけない。萩の宮姫」
「はい」
「喪が明けたら、必ずこちらへ参ります。それまで…待っていていただけますか」
 馨君が尋ねると、萩の宮姫は頷いて、深くその場に平伏した。三条邸へ戻る。牛車の用意を。そう言って歩き出した馨君の足音が聞こえなくなるまで、萩の宮姫は平伏したまま馨君を送り出した。

 
(c)渡辺キリ