玻璃の器
 

   12

 行忠邸の東北の対で、内裏から戻ってきた柾目が烏帽子直衣に着替えていると、それを手伝っていた女房が今日はお暑うございますねと声をかけた。
「そうだな、蒸し蒸しするようだ」
「後で削り氷をお持ちしましょう。姫さまにも夕餉の後お持ちしましたら、喜んでおられましたので」
「そう…姫のご機嫌はいかがかな」
 できれば、もう顔を合わせずに寝てしまいたかった。体力が落ちているようだ。ずっと苛々している。息をついて柾目が脇息に手をついて座ると、女房はそばに控えて蝙蝠で風を送りながら答えた。
「今日は大分よろしくて、水漬けもいつもはお残しになられる所を全部お召し上がりになりました。ご懐妊の兆しが見え始めた頃は、削り氷も口に入らぬ様子でございましたが」
「そうか。体をいたわるよう伝えてくれ。私は少しやらねばならないことがあるので今宵は伺えませんが、明日には必ずと」
「分かりました」
 蝙蝠を畳んで立ち上がると、女房は静かに母屋から出て行った。
 行忠の一の姫の懐妊の兆しは、二条の方が亡くなった直後に表れた。都中が服喪の雰囲気に包まれた中で、大っぴらに発表するのは控えようと柾目から行忠に進言した。行忠にとっては初孫で、生まれた子が男でも女でも、いずれは后か大臣にと行忠は心の底から喜んで祝辞を述べた。
 このことを、白梅院さまはどう見ておられるのか。
 すでにお忘れかもしれぬ。かの方の血筋がここにも受け継がれたことなど。幼い柾目の耳に何度もそなたは朕の息子なりと囁き、水良が生まれるまでは数多い皇子の中でも柾目を一番可愛がっていた白梅院を思い出すと、柾目は息をついて別の女房に蝙蝠で風を送るよう命じた。生温い風が頬をなでて、ふいに白梅院の声が耳に蘇る。
 そなたの母が式部卿宮の元へ入った時、すでにそなたは母上の腹の中にいたのだよ。
 だからそなたは私の子だ。柾目、そなたの母上を手放すのではなかった。そうすればそなたを皇子として世に広く認めさせてやることもできただろう、と。
 母に飽きた白梅院が、なぜ私をあんなにも溺愛することができたのか…。
 今なら、白梅院の世迷い言を大人ゆえの虚言と笑って流すこともできたのに。
「柾目さま…」
 その時、ふいに三の姫付きの女房の一人が、袖で口元を隠して廂に平伏した。下がれ。そう言って他の女房たちを廂へ下がらせると、柾目は三の姫付きの女房を手で招いた。
「どうした、何かあったのか」
 柾目の指示ということは伏せて、新しく三の姫の対へ回した女房だった。青ざめた女房は、柾目に小さな声で耳打ちした。
「…本当か」
「はい、夕べも確かめました。すでに何度かおいでのようで、何人かの女房が手引きしておりました」
「そうか…次はいつ来るか知っているか」
「最近は毎夜訪れがありますので、今宵もおいででございましょう。いつも亥の刻に」
「分かった、ありがとう。このことは誰にも言わぬように。そなたは引き続きよく見ておいてくれ」
 柾目が言うと、女房は深く平伏して静かに立ち去った。右大弁がすでに通っているか…バカな男だ。何をした所で、私が思いを傾けることはないというのに。
「そなた、すまぬが誰かに腕の立つ口の堅い者を三、四人集めて、亥の刻頃にこちらの庭先へ案内するようにと頼んで来てくれ。このことは他言無用に。行忠さまには私から話す」
「はい、かしこまりました」
 女房の一人が立ち上がってまた静かに下がって行った。それと入れ替わりに別の女房がやってきて、興奮したような赤い顔で廂に平伏した。
「柾目さま、ただいま内裏より使いの者が参りまして、弘徽殿女御さまがご懐妊遊ばされた由にございます」
「それは誠か!」
「行忠さまが寝殿にて応対遊ばされておいでです。すぐに柾目さまにもおいでになるようにと」
「分かった、すぐ参ろう」
 そう言って立ち上がると、柾目は蝙蝠を胸元に挿して母屋を出て行った。弘徽殿が懐妊…今時期ということは。
 ハッと思わず足を止めて、それから柾目は何食わぬ顔でまた寝殿へ向かった。後から従っていた女房が藤壺さまよりお早いご懐妊とはと顔をほころばせて言った。明日、弘徽殿へ伺わねば。言葉を返して、柾目は寝殿へ先触れをと女房に声をかけた。

 
(c)渡辺キリ