玻璃の器
 

 いつもより少し早い時間に西の門から三の姫の元へ忍んできた伴右大弁は、寝殿の方角が騒がしいのを見て、弘徽殿女御ご懐妊の噂はやはり本当だったのかと息をついた。
 これが男皇子だった場合…行忠さまは恐らく早い内に内大臣となられるはず。そうなれば、新年にもお生まれになる赤子は東宮となられるやもしれぬ。それも水良さまの元へお輿入れされている四の姫の父、左大臣兼長がどう動くかによるが…考えながら庭を回ると、右大弁は西の対へ入っていつものように女房と落ち合い先導を頼んだ。
 本来なら、噂を聞けば真っ先に行忠さまの所へ駆けつけなければならない所を…弘徽殿女御さまのご懐妊で三の姫を内裏へと行忠さまが言い出さぬかと心配で、かの方のそばに向かわずにはいられない。
「右大弁さま」
 妻戸から中へ入ると、三の姫が振り向いて右大弁を見上げた。お互いに抱き合うと、姉上さまがご懐妊遊ばされたそうですねと右大弁が尋ねた。
「ええ。日が暮れた頃、内裏より知らせが参りました。父上はすぐに参内なされたのでまだこちらにはおいでではございませんが、女房が知らせにきて…」
「おめでとうございます、三の姫さま。弘徽殿女御さまのお生みになられる赤子が皇子なら、将来、弘徽殿女御さまは国母になられるやもしれませんぞ」
 三の姫の小さな体をなでさすると、右大弁は不安を振り払うように懸命に話した。そうだ、今なら行忠さまのご機嫌は絶対によいはず。心を込めて三の姫を私にと頼めば、承諾してくれるかもしれない。
「三の姫さま、私は行忠さまが退出されて、こちらへ戻られたら、すぐにあなたをいただきたいと行忠さまに申し上げるつもりです。よろしいですか」
 右大弁が三の姫の手をつかんで言うと、三の姫は熱に浮かされたように潤んだ目で頷いた。顔を見合わせて二人が唇を合わせると、ふいに妻戸の向こうで何をなさいます!という女房の声が上がった。
「何の騒ぎだ」
 三の姫を抱いたまま右大弁が振り向くと、妻戸がバタンと開いて柾目が入ってきた。行忠さまと共に内裏へ向かったのでは。驚いて右大弁が尋ねると、柾目はジッと右大弁を見つめて答えた。
「私はそなたが来るのを待っていたゆえ」
「…知っていたのか」
「無論だ。三の姫さま、あなたもバカなことをしでかして下さったものだ」
 普段の丁寧な柾目の物言いとは違って乱暴な口調で、三の姫は右大弁の後ろに隠れるように身を縮めた。柾目が連れてきた男たちが二人を取り囲んだ。待て! 三の姫の顔を男たちにさらさないようギュッと抱きしめると、右大弁は柾目を見上げて言葉を続けた。
「明日、行忠さまがお戻りになられたら、すべてお話しするつもりだ! 私は三の姫さまを心の底よりお慕いしている。生涯、大切にお守りしてゆくつもりだと。それまで待ってはいただけまいか」
「何を今更。所詮、出世が目的であろう。そなたは三の姫には似合わぬ。また次の手を考えるのだな」
「違う…違う! 初めはそうだったかもしれぬ…だが、今は本気なんだ! 三の姫さまと別れるぐらいなら死んだ方がましだ!」
 右大弁の言葉に、柾目はピリッと眉をひそめた。本気だと? このまだ子供のような顔をした三の姫に? 私を望んだ同じ口で、三の姫を望むと言うのか。
 柾目がそれまで手に持っていた太刀を鞘から抜くと、妻戸の近くにいた女房が腰を抜かしてひっと声を上げた。青ざめた右大弁と三の姫が、柾目を見上げた。そこまで言うなら、死んでもらうしかあるまい。そう呟いて柾目は切っ先を右大弁の鼻先に突きつけた。
「…! おやめくださりませ!」
 慌てて言った三の姫が、血の気の引いた顔で右大弁に抱きついた。クッと眉を寄せて、柾目は最後の理性で太刀の刃を止めた。このままでは三の姫も切ってしまう。太刀を下ろして鞘に納めると、柾目は周りを囲んでいた男たちに目で合図した。
「何をする…!」
「右大弁さま!」
 三の姫の悲鳴と右大弁の声が同時に響いた。背が高くがっしりとした右大弁も男四人に押さえられるとどうすることもできず、妻戸より外へ連れ出された。外に控えていた柾目付きの女房たちに三の姫を見張っておくよう命じ、後について外に出ようとした柾目に、三の姫が震えながら尋ねた。
「右大弁さまを、どうなさるおつもり」
 その声色は低く、怒りに満ちていた。怯えているのかと思ったら。無表情のまま三の姫を見下ろすと、柾目は手に持っていた太刀を佩いて答えた。
「殺しては後、検非違使がうるさかろう。検非違使別当を兼任しておられる行忠さまにとってもまずいことになる」
「それでは…」
「右大弁どのには、出家していただく」
 冷たい声が、三の姫を凍りつかせた。声も出ずに目を見開いた三の姫に侮蔑の眼差しを向けると、柾目は控えていた女房たちに後を頼むと言いつけて妻戸から外に出た。庭先に引きずり出された右大弁は暴れて離せとわめいていて、簀子から縄を打つよう命じ、男の一人に牛車の用意を、もう一人に三の姫付きの女房たちを全員一か所に集めて行忠が帰るまで見張っておくようにと言いつけた。真っ赤な顔で、縛り上げられても尚暴れている右大弁を見下ろすと、柾目はふつふつとわき上がる負の感情に自らの身を浸して高欄をつかんだ。
「右大弁」
 柾目の声に、ビクッと震えて右大弁は顔を上げた。その目は爛々と輝き異様な雰囲気を醸し出していた。殺すなら早く殺せと右大弁が怒鳴ると、柾目はスッと冷めた目で右大弁を見つめた。
「そなたにはこれから、旅をしていただこう。私の縁の寺へ文を持って行ってくれ」
「寺へ…」
「確かに渡してくれ。そして今宵はそこに泊まるがよい。逃げられぬぞ、この者たちについていってもらうからな」
「柾目…お前、何を」
「…最後まで、やはりそなたを思うことはできなんだな」
 口元で呟くと、柾目は高欄から手を離した。準備ができるまで塗籠へ閉じ込めておけ。その場に残った男に命じると、柾目は足早に東北の対へ向かった。

 
(c)渡辺キリ