弘徽殿女御の懐妊は、あっという間に都中に知れ渡った。
惟彰が主上となった新しい御代への期待と共に、人々は弘徽殿女御の懐妊を喜びを持って迎えた。もし皇子が生まれれば国も安泰と、いつまでも平穏に国が栄え続けますようにと人々は祈った。喜びに沸き返る中、行方知れずとなった右大弁のことは一時宮中で取りざたされたが、あっという間に忘れ去られてしまった。
左大臣家も含めて公卿、殿上人たちからの祝いの品も弘徽殿に次々と届いた。そんな騒ぎも知るや知らずや、藤壺ではその日、朝から琴(キン)の琴の音が響いていた。
「藤壺さま、お呼びと伺いましたが」
喪の色の童直衣を着た冬の君が、女房に案内されて藤壺の廂に平伏した。懐にはいつものように笛が挿してあった。元服が決まるまでは童殿上をと言う兼長に従って、服喪中も朝から兼長と共に参内していた。
「冬の君、琴だけだと何だか物足りないの。笛を合わせてくれないかしら」
朝からずっと熱心に琴を奏でていた芳姫が言うと、冬の君はようございますと答えて笛を出した。いつ見ても素敵な笛ね。御簾越しにも冬の君の持っている笛のよさが分かるのか、芳姫が褒めると、冬の君は嬉しそうに頷いた。
「はい、これは時の宮さまからいただいた物なんです。特に音のよい物を選んで下さったのです」
「それはよろしいこと。時の宮さまは浮ついているように見えて、あれで誠実な方ですものね。私にもいつも優しい言葉を下さいますわ。鳴姫さまはお幸せだこと」
にこやかに笑って言うと、芳姫はまた琴を爪弾き出した。弘徽殿さまのご懐妊の件で、やはり塞いでおられるのだろうか。少し御簾内の気配を伺うと、冬の君は笛を唇に当てた。
冬の君の笛は琴の音色に絡まって流れた。この君の笛の音は優しいわ…。考えながら芳姫が目を伏せて一心に琴を弾き、しばらく二人は音を合わせた。仲のよいご姉弟だこと。女房たちが目を細めて二人の合奏に耳を傾けていると、簀子に女房がやって来てそっと控えた。
「あら、どうしたの」
曲が途切れた所で冬の君が気づいた。それに芳姫が気づいて顔を上げると、女房は平伏して馨中将さまがおいででございますと答えた。
「まあ、兄上が? どうぞお通しして」
芳姫が言うと、冬の君が座を明け渡して女房に下座に円座を置くよう頼んだ。冠直衣で現れた馨君は、後ろに従えた女房に山桃を持たせていた。
「藤壺さまがお好きな山桃をたくさんいただいたので、持って参りました。嫌というほどありますよ。今こちらへも少し分けて持って参りましたけれど、後で女房たちにも分けてあげてはいかがです」
ニコニコと笑みを浮かべて馨君が言うと、冬の君が真っ赤に熟した山桃を見てわあと声を上げた。相変わらず食いしん坊だこと。芳姫が笑うと、馨君はムッとして答えた。
「おや、藤壺さまはいらぬと見える。それでは冬の君と二人でいただきましょう」
「待って待って! 食べないなんて言ってないわ! 私にもちょうだい」
芳姫が慌てて言うと、馨君は廂の上座に腰を下ろして女房に御簾内へも運んでおくれと頼んだ。声を上げておかしそうに笑う冬の君の手元に笛を見つけると、馨君はさっきの笛の音はやはり冬の君かと感心したように呟いた。
「そのうち、雅楽寮から冬の君を雅楽頭にいかがかと催促が来そうだな」
「滅相もございません。私など笛一本槍で、しかもその笛も…」
椿の宮さまには遠く及びませんと言いかけて、冬の君は言葉を飲み込んだ。そんなことはなくてよと言って笑う芳姫の声に、気を取り直して冬の君は答えた。
「いいえ、やはり私一人ではどうにもなりませぬ。前雅楽頭の源三篤どのは、手がたくさんあれば一人で管弦の宴を開けるほど、楽が達者でいらっしゃると伺いましたし。それにやはり弦物は蛍宮さまには遠く及びません」
「そうねえ、蛍宮さまはとても素晴らしい音色を奏でられるものね。女一の宮さまも大層琵琶がお上手とか」
からかうように笑って芳姫が馨君を見ると、馨君はとぼけた調子で、確かに萩の宮姫の琵琶は素晴らしいですよと答えた。一度は内裏へいらしていただくか、里下がりをした時にでも三条邸でお会いしたいわ。芳姫が言うと、馨君は山桃を口に放り込んでから御簾内に視線を戻した。
「それでは、文でも書かれてはいかがです。萩の宮姫は教養も高い方ですから、折々の文も美しい物をお書きになるし」
「あら、兄上。それはのろけておいでなの?」
芳姫も山桃を口に入れて答えると、馨君はそう取ってもらっても結構と切り返して笑った。まあ、ご婚礼が決まるとこうも変わられるのかしらね。おかしそうに言った芳姫に、馨君はホッとして笑い返した。
よかった。弘徽殿女御さまのご懐妊を聞いて、てっきり塞ぎ込んでいるものと思っていたけれど。
父上は狼狽されておいでだが…俺にとっては。目を伏せて、申し訳なさに胸が一杯になって馨君は息を吐いた。もし皇子が生まれれば水良が廃太子になるかもしれないと、俺は心のどこかで喜んでいる。
そこまで考えて、馨君はドキンとして思わず胸を押さえた。
…俺は、左大臣家の命運よりも、水良の廃太子を望んでいるのか。
弘徽殿女御さまに皇子が生まれ、その方が東宮となれば、行忠どのが父上よりも先に太政大臣となられるかもしれないというのに。
「兄上、また胸が苦しいのではなくて?」
ふいに芳姫の声がして、馨君はハッと顔を上げた。隣に座っていた冬の君も、心配げに自分の顔を見ていた。大丈夫でございますか? 冬の君が尋ねると、馨君は頷いて胸から手を離した。
「大丈夫だ。すまない」
「ご無理はなさらないでね。こないだ都へ戻っておいでになられたばかりじゃないの。今宵は内裏も騒がしいでしょうし、お早く三条邸へお戻りになられては」
「おや、早く帰ってほしいのならそうお言い。山桃はやはり熾森や若葉と食べよう」
「もう! 兄上ったら」
そう言って、何ともなさそうな馨君の顔を御簾越しに見て、芳姫はようやくホッと息をついた。三人で音を合わせるのは初めてだし、少し何か弾こうと言って、馨君は女房に笛を持って来るよう命じた。
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