玻璃の器
 

 義父の行忠と共に幾度めかの懐妊祝いを持って参内した柾目は、つわりで憔悴している濃子に簡単に挨拶だけをして、行忠と共に別室へ下がって白湯を飲んでいた。最近、気分が優れないとずっと行忠と会うのを拒んでいる三の姫の話になると、行忠は気ぜわしげにあぐらを組んだ自分の膝をつかんでトントンと指で膝を叩いた。
「喪が明ければ東宮妃入内だというのに、未だによくならんとは。遅れをとっていた我らも、弘徽殿女御さまのご懐妊でさあこれからと言う時に」
 困ったようにため息をついた行忠に、柾目は本当ですねと相づちを打った。
 あれから、三の姫と伴右大弁をめあわせる中心となった栄という女房を、柾目は自室へ呼び出した。
 ただ震えて平伏する栄に、柾目は自分の夫と三の姫、共に救いたいと思うなら、これから言うことをよく聞くがよいと囁いた。ただ三の姫のそばにいて、三の姫が自害せぬよう、そして剃髪せぬよう三の姫付きの女房全員で心を配るのだ。やがて春宮さまの喪が明け、東宮妃として入内するまで他の男を一切近づけるな。文もならん。
 それだけでございますか。驚いて栄が尋ね返すと、柾目は頷いた。ありがとうございますと涙する栄に、他の女房たちをよく監督して、三の姫が落ち着くよう心して仕えてくれと言いつけて下がらせた。三の姫のお気に入りの大弐という女房も、三の姫付きに戻して機嫌を取らせている。
 あの女房は、自分の夫と三の姫という枷をかけられたのだ。
 いつも見張られていると怯えながら、三の姫のそばで、泣きわめく三の姫の心を一刻も早く鎮めねばならんという大役を背負わされたのだ。
「それでも以前に比べれば、わずかながらも快復に向かっておられるようでございます。喪が明けるのはまだ少し先のこと。ご心配なさらずに、成り行きに任せましょう」
 柾目が穏やかな笑みを浮かべると、行忠はそうだなと相づちを打って頷いた。その時、弘徽殿の女房が静かにやってきて簀子に控え、女御さまが弾正宮さまにおいでいただくようにと仰せでございますと告げた。
「はて、何でございましょうな」
「私をお呼びということは、一の姫のことでございましょう。同じくご懐妊された方同士でございますから、何か聞きたいことでもあるのでございましょう」
 そう言って立ち上がると、柾目は女房と共に弘徽殿へ戻った。
 柾目が弘徽殿の間の廂に作ってあった座に腰を下ろすと、中にいた古参女房が周りの女房に向かって下がられいと威厳高く言った。柾目が冷静を装ってあぐらを組むと、女房が全員下がったのを確認してから几帳の奥にいた濃子が沈んだ声で呟いた。
「近う寄れ…構わぬ」
「しかし」
「そのようは端近では聞こえぬ。声を出すのも辛いのだ…御簾のそばまで寄れ」
 濃子の言葉に、柾目は御簾のすぐそばまで近づいてそこに片膝をついた。濃子の方も、几帳の奥から出て御簾のそばに這いよった。互いの息づかいを感じる所まで近づくと、濃子は顔を上げて御簾ごしに柾目の顔をジッと見つめた。
「…ここではいけませんぞ」
 低い声で柾目が言うと、濃子は柾目を見つめたままボソリと呟いた。
「そなたとはもう…抱き合うこともなかろう。どのような縁だったのか…なぜあのように溺れたのか自分でも分からぬ」
「濃子さま」
「本当はわらわを、さまなどと呼ぶような身分でもなかろうに、さぞかしわらわや父上を恨んだことであろう」
「…」
 これまでにない濃子の言葉に驚いて柾目がわずかに目を見開くと、濃子は御簾の下からそっと手を出して柾目の膝をつかんだ。
「この子は…ゆめゆめ忘れるでないぞ、この子は主上の皇子じゃ」
「濃…」
「み印があった」
 濃子の言葉に、柾目は体の力が抜けて思わずその場に手をついて顔を伏せた。なぜ自分がこのように脱力しているのかも分からなかった。もしや自分の子ではと、あれからずっと思っていた。自分の子ならよいと。
 自分の子、ただそれを望んでいたのか私は。
 自らが主上となることを望むべくもない。心の底ではとうにそう分かっていた。その空虚さをわが子が埋めてくれるのではと…。いや、私はなぜ主上になりたいと望んでいたのか。
 分からぬ。すべてが明瞭だった昔とは違い、今は何もかも分からないような気がして、柾目はぐううと声をもらした。その膝から手を離すと、濃子は口元を袖で押さえながら涙を一筋落とした。
「主上も喜ばれておる。初めて、わらわは主上の御為にして差し上げる物ができた…その幸せを噛み締めておる所なのだ。柾目…いや、弾正宮どの。これからも父上のために尽くしてほしい。そなたが望みを叶えるために、わらわも父上も助力を惜しむまいぞ」
 そう言って、濃子はまた几帳の奥へ戻って行った。その衣擦れの音を聞きながら、柾目は身を起こして心を吹き荒れる嵐が通り過ぎるのを静かに待っていた。濃子を抱いたのは、ただあの方の心に沿うため、水良を主上にするために打った手の内の一つだっただけなのに。静かに深く息を吐くと、柾目は立ち上がって黙ったままそこを立ち去った。

 
(c)渡辺キリ