妃の初めての懐妊に喜んでいる惟彰に祝いの言葉を述べると、馨君はそのまま梨壺へ向かった。
四の姫の元を訪れているという水良を呼び戻すよう頼むと、梨壺の女房は、馨中将さまもどうぞ四の姫さまの元へと薦めた。
「すまぬが、あそこでは話はできまい。こちらでお話をと伝えてくれ」
馨君がそう言うと、女房は確かにあちらは賑やかでございますものねと苦笑して、水良を呼びに行った。先に廂に控えていた朝顔を見ると、馨君は他の女房に下がるように伝えた。
「毎日暑いな」
馨君が懐紙で汗を拭いて言うと、朝顔は廂の端近に座ってそうでございますわねと相づちを打った。夏物の薄衣を羽織った朝顔は、以前にも増して美しかった。馨君と目が合うと、首筋まで朱色に染めて朝顔は尋ねた。
「馨君さま。水良さまが東宮となられて後、東一条邸へは参りませんが、今はどのようになっておりますか」
「今? 今は春宮さまの家司だった男が管理をしてくれているよ。私もたまに内裏より退出する時、牛車で回って行くことがあるが、みなも元気そうだし屋敷も美しいままだよ」
「私、あちらで馨君さまと藤花の宴をするのを楽しみにしておりましたの」
「そう、それは残念だった。藤の季節はもう過ぎてしまったね…」
馨君が言うと、朝顔は本当にと答えて笑った。来年だな。蝙蝠を広げてあおぎながら馨君が付け加えると、朝顔は手を差し出して蝙蝠をと言い添えた。
「来年ですわね。お約束ですよ」
「ああ…その時には、春宮さまもご一緒できるといいな…」
朝顔がゆっくりと蝙蝠であおぐと、馨君は目を伏せて独り言のように呟いた。しばらく二人で黙っていると、ふいに馨君が朝顔を見て尋ねた。
「朝顔、そなた王命婦どのと遠縁だと言ってたが、今はどうしておられるの」
「命婦さまですか? つい先頃まで春宮さまの伯母上にあたられる方の元に身を寄せておられましたけど、今は知り合いの尼寺で勤行の日々ですわ。藤の皇太后さまと前麗景殿さまの御身を祈っておられます」
「何とか文を取次いでもらえぬだろうか。できれば直接会って伺いたいことがあって」
「ええ、構いませんことよ。私もそろそろ文を出さねばと思っていた所でございます。衣なども誂えて差し上げたいし」
朝顔が答えると、馨君はホッとして息を吐いた。その時、先触れの女房が春宮さまのお越しでございますと二人に告げた。馨君が居住まいを正すと、鈍色の直衣を着た水良が半分巻き上がった御簾をくぐって母屋に入った。
「馨君、いかがした。四の姫には聞かれたくない秘め事か」
からかうように言った水良に、図星だけに答えられんと馨君が黙っていると、朝顔以外の女房が人払いされているのに気づいて、水良は今先導を務めた女房に局へ下がるよう命じた。朝顔も下がってくれるかと馨君が頼むと、朝顔は二人を見比べて平伏してから、お約束ですよと馨君に念を押して下がって行った。
「約束?」
水良が尋ね返すと、馨君は何でもございませんとはぐらかした。俺には教えてくれないのか。拗ねたように水良が蝙蝠を出してあおぎながら言うと、馨君は大きな目で水良を見上げて答えた。
「ええ。秘め事でございますから」
「意地悪だな…それで、伯母上の宮へは行ったのか」
水良が尋ねると、馨君は頷いてお側に寄らせていただきますと立ち上がった。母屋に入って水良の前に片膝をつくと、馨君はひそひそと言葉を続けた。
「当時のことを知る尼が一人残っておりましたので、話を聞いて参りました。当時、太皇太后さまのお気に入りだった女五の宮さまは、東宮となられた会恵さまの元へ嫁がれる予定だったそうです。でも、なぜか会恵さまは妃を娶らずに内裏を出奔され、そのまましばらく後にご出家遊ばされたとか」
「伯父上が東宮に? そんな話は聞いたことがないぞ」
「その尼もすでに老いてはおりますが…記憶はしっかりしているように見受けられました。女五の宮さまと会恵さまは思い合っておいでだったのですが、当時の弟宮…花河院さまも女五の宮さまを思っておられたそうです。それで、会恵さまがご出奔された後に院が女五の宮さまを娶られたのだと」
「それでは、昔は父上と伯父上は仲がお悪かったのだろうか」
「いいえ、それは仲睦まじかったそうでございますよ。今のように」
馨君が答えると、水良は黙り込んだ。俺とて…兄上と同じ人を思っているが、兄上を嫌いになった訳ではない。水良がそっと馨君を見つめると、馨君はその場にあぐらを組んで座り直した。
「ともかく、その尼から女五の宮さまのお付き女房だった者の話を聞きましたので、次はその者から話を聞いてみようと思っております。なぜ会恵さまがご出奔遊ばされたのか分かりませんし…」
「なら、俺も行こう」
水良が言うと、馨君は驚いて顔を上げた。なりません、どこぞの尼寺においでかまだ分かりませんし。馨君が慌てて止めると、水良は首を横に振って答えた。
「尼寺なら、そなたも入れまい。牛車で迎えをやってその尼君を東一条邸に参らせるのだ。内裏では誰が聞いているとも限らぬが、あそこなら信頼できる者ばかりだし」
「しかし、春宮さま」
「東一条邸など目と鼻の先、大丈夫だ。頼む…この耳で直接、母上のことを聞きたいのだ」
水良の言葉に、馨君は黙り込んだ。水良はまだ春宮になったばかり…無理な外出はさせたくない。だけど…女五の宮さまのことを自分で聞きたいというのも分かる。少し考え込むと、馨君は水良を見上げて答えた。
「では、私と共にお忍びで参りましょう。日が決まれば文でお知らせいたします」
「頼む…ありがとう」
そう言って、水良は顔をほころばせた。俺も甘いな…。思わず小さくため息をつくと、馨君は見つからぬようにお気をつけ下さいと言って頭を下げた。
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