玻璃の器
 

 それは朝から暑い日だった。
 東一条邸でも東門の周りに水が打たれ、主を迎える仕度がすでに整えられていた。酉三つ頃に内裏の方角から随身に伴われた牛車がゆるりと来て止まった。水打ちされた所を避けて牛車から降りると、水良は振り向いて馨君を見た。
「先に来ているのか」
「はい。夕べの内に参って、こちらに泊まられたそうでございます」
「そうか…」
 そう言って、水良は随身に伴われるのももどかしく足早に東一条邸へ入った。お久しぶりでございます、春宮さま。そう言って、東一条邸を守る女房たちが出迎えて平伏した。みんなに声をかけてねぎらうと、命婦は来ているかと水良は尋ねた。
「はい。先程からお待ちでございます」
「そうか。水を持って来たら、しばらく私たちだけにしておくれ」
 水良が頼むと、一人が水を取りに、もう一人が先触れに立ち上がった。その間に水良と馨君が寝殿の母屋に入って腰を下ろした。中は喪のしつらえのためにすっかり様変わりしていて、前はここで水良と抱き合ったのだなとぼんやり考え、馨君はうっすらと赤くなった。
「命婦どのがお越しでございます」
 提子に入れた冷たい水と杯、それに高杯に氷室の氷を入れた器を置いて女房が持ってくると、続けてやってきた別の女房が簀子から水良に声をかけた。続いて、薄物の墨染めを羽織り、髪を背中の真ん中辺りで切りそろえた命婦が簀子に平伏して、お久しゅうございますと丁寧に挨拶をした。王命婦…いつぶりだろうか。息災そうでよかった。水良が上座から答えると、王命婦は嬉しそうに笑って、張りのある声で答えた。
「本当にお久しぶりでございます。水良さまが東宮となられたことは風の噂で耳にしましたけれど、なにぶん今身を寄せている所が遠くて、ご挨拶にも伺えませんで失礼いたしました」
「尼御前さまがお亡くなりになられた後、宇治に移ったと朝顔から聞いたが…」
 馨君が声をかけると王命婦は頷いて、廂にしつらえられた円座にゆったりと座った。お召し上がり下さいませ。女房が杯に水をついで、頭を下げてから出て行った。三人だけになると、水良は王命婦を眺めて目を細めた。
「そなたが出家していたとは…しかも伯母上の元に身を寄せていたとは知らなかったよ」
「お知らせしようと思いながらも、御代が変わって慌ただしくなってしまって…尼御前さまは、いつも水良さまの身を案じておいででございましたよ」
「そう…一度も会えず、本当に申し訳のないことだった」
 目を伏せて呟いた水良を見て、馨君も沈んだ表情で視線を膝に落とした。内裏を出られた院とは滅多に会えず、なさぬ仲の皇太后さまには女五の宮さまのことは聞きづらかろう。尼御前さまだけがご存じのことも多かっただろうに…。隣に控えて黙っている馨君に気づくと、水良はふいに口火を切った。
「王命婦、そなたは命婦となられる前に我が母上に仕えていたと聞いたが」
 身を乗り出すように尋ねた水良に、王命婦はよくご存じでございますわねと驚いた。ちらりと馨君へ視線を向けると、命婦は言葉を選んで答えた。
「かの方は、前帝と前太政大臣どのの姫君との間に生まれた姫宮でしたので、特に都の注目を集めておいででございましたわ。藤の皇太后さまもお美しいと評判でしたが、女五の宮さまは尼御前さまと並んで楽が達者で、歌も素晴らしく、たおやかで女らしいご気性の方でございましたので。入内されるだろうと裳着を終えられぬ前からすでに人々も噂して、それはもう綺羅綺羅しいお方でございました」
「…ありがとう」
 手放しで褒められ、水良はくすぐったそうに赤くなって礼を言った。いや、回りくどい言い方をしても仕方あるまい。そう言ってあぐらを組み直すと、水良は背筋を伸ばして王命婦を見据えた。
「そなた…母上と伯父上が思い人同士だったということを知っているな」
 水良が言うと、王命婦は息を飲んだ。それをどなたから。かすれた声で尋ねると、命婦は床に置いてあった杯を取り上げて水を飲み干した。
「ある尼から聞いたのだ。いや…それ以前に、父上からぼんやりとほのめかされたのだ。命婦…俺は本当のことが知りたい。幼い頃から自分が誰の子なのか、ずっと知らぬまま来てしまった。このままでは春宮でいることも心苦しいのだ」
「水良さま、あなたさまは間違いなく主上の皇子…」
「命婦!」
 思わず腰を浮かして、水良は声を張り上げた。水良の表情は苦しげに歪んでいた。頼む。短くそう言って腰を下ろすと、水良は息を大きく吸ってまた吐き出した。
 空気が澱んでいるように、簀子から吹き渡る風一つなかった。
 じわりと馨君の額に玉の汗が浮かんだ。日が暮れたというのに、まだ母屋の中は蒸し蒸しとして暑かった。いつもなら夕涼みの風が吹き込む時刻なのに、まるで熱い空気が底に溜まっているかのように、息苦しかった。ちらりとまた馨君を見ると、命婦はその場に平伏して絞り出すように呟いた。
「…どうか、中将さまをお下げになって」
「構わぬ。中将はすでに知っているし、誰にも言わぬ」
 水良が言うと、ぐぐっと命婦の喉元が鳴った。

 
(c)渡辺キリ