玻璃の器
 

 しばらく臥したまま考え込んで、命婦はふいに身を起こした。
 私が知っていることを全てお話ししましょう。そう言って、命婦はピンと背筋を伸ばして座った。
「私とて…いつまで生きていられるやも分かりませぬ。あなたさまがお知りになりたい時、別の誠をお教えする者がいてはなりませんから」
「…」
 水良がジッと命婦を見つめると、命婦は膝に自分の手を置いてぽつりぽつりと話し出した。
「私が女五の宮さまにお仕えするようになった時、すでに女五の宮さまは会恵さまと思い思われておいででございました。幼い女五の宮さまを、時に母のように、時に姉のようにお諌め申し上げるのが私の役目でございました。今はすでに亡くなられた太皇太后さまが、女五の宮さまをお気に召しておいででしたので、女五の宮さまはほんのお小さい頃から何度か内裏へおいでで、会恵さまや院と内裏のお庭でかけっこなどをして遊んでおられたそうでございます。
その内、女五の宮さまは会恵さまたちとは顔を合わせてはならぬ年頃となり、文のやりとりだけが続いて三人とも塞ぎ込んでしまわれました。そんな中、院(花河)が女五の宮さまを望まれたので、太皇太后さまは女五の宮さまを院に…弟宮さまにと、太政大臣さまへそれとなく打診なされたのでございます。それを聞いて、会恵さま…春宮さまは、女五の宮さま以外は誰も娶らぬと仰られて…ご自分一人で元服を遊ばされたのでございます。太皇太后さまのお嘆きと、時の主上白梅院さまのお怒りは凄まじく、内大臣さまの一の姫さま(絢子)を娶って世継ぎの皇子をとご入内の準備を進められる間に、春宮さまは女五の宮さまに会うためにご出奔遊ばされたのでございます。
春宮さまのお立場を思って、内裏へ戻るよう仰る女五の宮さまのお心を、春宮さまもご存じであらせられました。ただ一度の契りをと、東宮というご自分の地位よりも女五の宮さまを選ばれた春宮さまと、ただただご自分の思いよりも春宮さまのお立場を大事に思われた女五の宮さまの悲しいすれ違いでございました…。また、ご自分が不用意に女五の宮さまを望まれたために、春宮さまを苦しめたと塞ぎ込んでしまわれた弟宮さまのために、春宮さまは一度は内裏へ戻られました。けれど…内大臣さまの一の姫さまのご入内の日が近づくにつれ、やはり他の女人は娶られぬと、とうとう春宮さまは内裏をお出になられたのでございます。
最後の文を受けとられた女五の宮さまは、その慈愛溢れるお文の内容に涙されました。ただ自分がいるために諍いや望まれぬことが起こるというのなら、いっそ弟宮さまのために出奔しようという春宮さまの固い決意が書かれてございました。女五の宮さまは、弟宮さまにお仕えして支えることが春宮さまの頼みならと、すぐにでも探しに行きたい気持ちを堪えに堪えて、次の東宮にお立ち遊ばされた弟宮さまの元へご入内遊ばされたのでございます」
「それなら、なぜ母上は」
 ジッと王命婦の言葉を聞いていた水良は、絞るような声で尋ねた。白梅院より手渡された女五の宮の蝙蝠を思い出した。俺は父上の子ではないと、母上はご存じだったのだ。なぜ…それなら、なぜ母上は他の男の子供を生んだのだ。
「…あなたさまは、会恵さまの皇子でございます」
 王命婦の低い声が響いた。
 水良が顔を上げると、命婦は言葉を続けた。
「女五の宮さまがご入内遊ばされても、弟宮さまは女五の宮さまにはお手をつけたりはなさいませんでした。兄宮さまが戻られたら、そのままご自分は東宮の位を兄宮さまに譲り、内裏を出るのだといつも仰っておいででございました。弟宮さまが女五の宮さまを望まれたことで、兄宮さまがご出奔遊ばされたのだとひどくご自分をお責めになって…見る影もなく憔悴なさってこのままお倒れになるのではとご心配していた頃、兄宮さまより女五の宮さまに文が届いたのでございます。
宇治の僧都の庵に身を寄せていた兄宮さまが、やはりただ一度だけ思いを遂げたいと、若い熱情を女五の宮さまへ届けられたのでございます。女五の宮さまのお母上さまが病に臥せってしまわれ、そのお見舞いにと里へお戻りになられた時に…私もお二人の熱情に負け、ただ一度きりの今生の契りをと…。その、ただ一度きりの契りの後、兄宮さまは女五の宮さまが弟宮さまと契られていなかったことを悟られ、そのまま宇治に戻られてご出家遊ばされて…そして、女五の宮さまは…あなたさまをお身ごもりになられたのでございます」
 そんなバカな…。そう呟いて、水良は自分の膝を強くつかんだ。
 まごうことなき君主の血…それは、主上となるはずだった会恵さまの血。
 宇治で会った会恵の笑顔を思い出して、馨君は口をつぐんだまま目を伏せた。あの方はご存じなのだろうか…もしご存じなら、全て黙って水良を見守って来て下さったのか。
「父上…」
 押し殺した水良の声がどちらを指すのか、馨君には分からなかった。その場に伏せて袖で顔を覆うと、水良はしばらくジッと息を殺して呼吸を繰り返した。

 
(c)渡辺キリ