玻璃の器
 

 日が暮れてからでは宇治にある尼寺には戻れず、王命婦はそのまま東一条邸に泊まり、次の日、宇治へ向けて発つことになった。
 水良がいないことが知れて騒ぎになってはいけないと、馨君の牛車に乗って水良はそのまま内裏へ戻った。牛車に揺られながら、ぼんやりと御簾越しに牛の歩みを見ている水良の横顔を眺めて、馨君はキュッと唇を引き結んだ。水良…本当に、これでよかったのか。
 これから会恵さまと顔を合わせた時、水良はどう思うのだろう。
「…馨君」
 ふいに振り向いて、水良は薄暗い中で馨君をジッと見つめた。その白い華奢な手をつかむと、水良はそのまま馨君の体を引き寄せて抱きしめた。驚いて馨君が思わず水良の背をつかむと、その首筋に額を押しつけ、水良は目を開いたまま呟いた。
「このことは…父上や伯父上には内密に。母上にもだ…これまでと同じように接してくれ」
「…うん、分かってる」
「馨君…俺は主上となるのだろうか。兄上に皇子が生まれねば、俺が帝の御座に着くのか。俺の望みはただ…」
 愛おしそうに馨君を抱きしめて、水良はその首筋にゆっくりと口づけた。水良。緊張した声が水良の耳に届いた。その声を振り払うように身を起こすと、水良は馨君の肩をつかんで頬を傾け、熱い唇を馨君の唇に押しつけた。
 ただ夢中で、貪るようにその唇を吸って。
「水良」
 小さな声で囁いた馨君の湿った唇にもう一度唇で触れ、水良はそのまま頬に口づけた。久しぶりの口づけに頭の芯が痺れるようにぼんやりとして、馨君は水良の背中に回した手に力を込めた。拒むことすらできなかった。自分も…水良を望んでいる。
 ぎゅっと抱き合ったまま、ゆるゆると進む牛車の中でただお互いの呼吸を聞いていた。お前だけが俺の誠だ。かすれた声が馨君の耳に届いて、身の内に沸き返る幸福感を一杯に感じて馨君は水良の体を強く抱き返した。
 牛車が内裏に着くと、ゆっくりと揺れが止まって二人は名残惜しそうに手を離した。ジッと見つめ合うと、それじゃと言って水良は榻が置かれたのを見て前簾に手をかけた。その袖をつかんで馨君が切なげに水良を見上げ、何か言おうとして口を開いた。その唇に自分の唇を重ねると、馨君の頬を覆って水良は小さな声で囁いた。
「大丈夫だ。もう落ち着いたから…また梨壺へ来てくれ」
「水良…」
「本当にありがとう。世話になった」
 そうじゃないんだ。言いかけた馨君の前で、水良は前簾を上げて牛車を降りた。随身に内裏まで送り届けるように頼む熾森の声が聞こえた。前簾を上げたまま見送る馨君を何度か振り返り、最後に大きく手を振って水良は門の奥へ姿を消した。
 …そうじゃない。水良のことが心配なのは確かだが。胸元をギュッとつかんで、馨君は前簾を下ろした。牛車の内壁にもたれると、大きく重い息を吐き出した。内裏に戻れば水良、お前は俺を抱いた手と同じ腕で四の姫を抱くのだろう。愛おしいと囁いて、その唇を四の姫の唇に重ねるのだろう。
 同じことの繰り返しなのか…本当の俺は、水良を俺一人の物に出来たらといつも嫉妬を抱いている。俺だけがお前の腕に抱かれる者になりたいと、思っている。俺の立場も…お前の立場も、何もかもぶち壊してしまいたいと思っている。
「若君」
 ふいに熾森の声がして、馨君は顔を上げた。何だ。馨君が尋ね返すと、熾森は少し迷い、それから静かに言った。
「これきりと、お約束下さいませ。あの方とは…遂げられぬ契りにございます」
「熾森」
「二の君さまがご元服遊ばされたら、私も官位をいただき、二の君さまのお伴をするよう兼長さまより言いつかっております。これが最後の忠告と、どうかお聞き届け下さい」
「…本当か」
 馨君が低い声で尋ねると、熾森ははっきりはいと答えた。しばらく黙り込んだ後、馨君は目を伏せて答えた。
「それは…めでたいことだ。お前も私の守りは疲れたろう。官位を授かれば禄もいただける。お前は賢いから、私の付き人というだけではもったいない」
「いいえ、いいえ! 私はこの身の続く限り、従者としてあなたさまの栄華を見守りとうございました。若君、私は…このままでは、あなたさまがどこかへ行ってしまいそうな気がして」
「バカなことを…私はどこへも行かぬ」
 そう答えると、馨君は牛車の中でうずくまった。自分の体を自分で抱きしめると、さっきまでここにいた水良の残り香を探すようにゆっくりと目を閉じた。この身があるために愛される喜びと、それがために味わう嫉妬の念を同時に感じて心が引き裂かれそうな気がした。惟彰さまも…こんな風に思っておられるのだろうか。ずっと…胸の痛みを。黙ったまま答えない馨君に、外で熾森が小さなため息をついた。

 
(c)渡辺キリ