ザアッと風が吹き上げて、内裏の庭の木々を揺らした。季節は夏から秋へと移り変わろうとしていた。
碁の相手をと言いつかって、馨君は清涼殿の朝餉の間を訪れた。夕べは内裏で宿直をした後で、まだ眠っていない馨君は欠伸をかみ殺して碁盤の前に座った。こちらにお呼びとは珍しいですね。馨君が尋ねると、惟彰はたまにはいいだろうと答えて碁石を渡した。
「私の碁が上手くないのを見兼ねたのですか」
馨君がいたずらっぽく笑って尋ねると、そう思う?と答えて惟彰は先に打つよう促した。しばらく白石と黒石が交互に打ち出され、次の手を考えている惟彰の前で馨君は目を伏せた。
「冬の君は右大臣家の養女を娶られたそうだね」
ふいに惟彰に聞かれて、馨君は視線を上げて頷いた。
「ええ、右大臣どのが孫姫さまを養女に迎えられたとか。冬の君のために色々と設えて下さったそうで、父上も喜んでいます。ただ母上が、やはり毎日、右大臣家へ通われると寂しいと仰って」
「先を越されたな、馨君。まだ萩の宮姫の元へは通っていないのだって?」
パチリと惟彰が石を打つと、馨君はどこから聞いてくるんだと唇を尖らせた。今、私まで戻らなくなったら、三条邸は火が消えたように寂しくなりますから。馨君が言うと、しょってるねえとおかしそうに言って惟彰は脇息にもたれた。
「頑張っておられるようですよ、冬の君は。いきなり左兵衛佐ですから」
「そなたの期待に応えようと、懸命なのだろう。内裏で何度か話したが、素直でいい子だ」
「はい…自慢の弟です」
馨君が言うと、惟彰は次の手は?と尋ねた。ぼんやりしていた馨君は、ハッとして慌てて石を打った。それはまるで見当違いで、惟彰がこれでいいの?と尋ねると、馨君は赤くなって黙ったまま石を戻した。
「意地悪ですね、主上」
「夕べは宿直だったのだろう? それぐらいでなければ、私は勝てないからね。あなたの顔に見とれてしまって」
「お戯れはおやめくださいませ。内裏には大勢、見目麗しい妃がおられるではありませんか」
「そなたほど外内の揃った者もおるまいよ」
「藤壺さまに申し上げますよ」
「主上を脅すか」
おかしそうに笑って、惟彰はここなら勝てようと言って蝙蝠で碁盤を指した。馨君が素直に石を置くと、惟彰は続きを打ってから馨君を見つめた。
「喪が明けたら返事をと、思っていた」
「…」
目を伏せて、馨君は石を持っていた手を下ろした。今、ここでか。うっすらと赤くなって視線を碁盤へ落とすと、馨君は小さく息をついた。何も考えられない。
「水良とは終わったと申し、萩の宮姫の元へは通っていない。それは…少しは自惚れてもいいということか」
「主上」
「そなたに会った幼い日より、ずっと私の心はそなたに縛られたままだ。生涯、私はそなたを愛するよう定められたのだろうか…」
馨君の手から石を取ると、惟彰はパチリと音を立てて碁石を打った。それは見事な手で、たった一手で戦局を引っくり返していた。このように、そなたの心も私に向けさせることができたら。そう呟いて、惟彰は口をつぐんだ。
俺は…水良を愛している。
苦しくとも、愛しているんだ…けれど、それをどうして今更、惟彰さまに言えよう。
「私なら、二度とそなたにそんな憂いた顔をさせぬ」
惟彰の声に、ハッと顔を上げて馨君は耳まで赤くなった。見抜かれているのだ。一歩下がって平伏すると、馨君はお許し下さいませと言ってギュッと目を閉じた。
「私は…決してあなたさまを悲しませたい訳ではないのです。あなたさまが望むなら…この身で済むことならばいつでも差し上げましょう。しかし…どうしても心は」
「分かっている。みなまで言うな…私とて、自分の心を変えられればと何度思ったかしれぬ」
顔をお上げ。そう言って、惟彰は笑った。俺はこの優しい人を、苦しませている。そう思うと、ただ胸が締めつけられるようで馨君は深く平伏した。惟彰の優しい声は、苦々しく馨君の胸に焼きついていつまでも離れなかった。
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