玻璃の器
 

 十月になると衣替えが行われ、馨君も二藍から白い直衣に着替えた。
 梨壺の喪が明けると、すぐに行忠の三の姫の東宮妃入内が行われた。三の姫の気鬱が晴れないままの東宮妃入内で、姉の濃姫の東宮妃入内に比べると規模も小さく、派手好きの行忠どのにしては地味な仕立てをしたものだと公卿たちが噂しあっていた。
 所詮、女一人が何に抗えるというのだろう。裳着を済ませて以来、冴え渡るような美しさと冷ややかさを身にたたえた三の姫は、美しく着飾られ、春宮が寝所へ訪れるのをただジッと待っていた。父上がお喜びになりますよ。そう言った柾目を激しく憎むこと以外、何ができたと言うのだろう。
 何も知らない父上が、おいたわしい。
 カタリと物音が鳴って、三の姫はビクリと身を震わせた。右大弁さま…もう二度と会えない人。右大弁の声や感触を思い出すにつけ、内裏での宴の夜に見た春宮の暗い表情を思い出すにつけ、身の奥がどうしようもなく震えた。三の姫がせめて逃げ出すまいと耐えてその場に座っていると、寝所に入ってきた水良が直衣姿のまま上座に腰を下ろした。
「よい、下がれ」
 三の姫の後ろに控えていた女房が、衣擦れの音をさせながら下がって行った。床に手をついて頭を下げた三の姫が黙っていると、水良はその指先を見て尋ねた。
「緊張しているの」
「…恐れながら、春宮さまの御前なれば」
「右大弁のことは残念だった。どうすることもできず、済まないことだった」
 え…? 驚いて三の姫が顔を上げると、水良は脇に置いていた蒔絵細工の文箱を取って三の姫の前に押し出した。内裏に小霧という耳聡い女房がいてね。そう言って、水良は三の姫の手を取って文箱に触れさせた。
「大納言どのが昔からそなたを私の元へ輿入れさせたいと申しておったのに、なかなか話を進めようとしないので…私はそれにかこつけてこちらよりは言い出さなかったのだが…やはりおかしいと思って調べさせたのだ。右大弁どのは今、出家されて大和におられる。ご自分の意志ではないこととはいえ、やはり心映えが悪かったのだろうと、今はそなたの幸せを一心に願って勤行の日々を送っておられるのだそうだ」
「右大弁さまが…?」
「それで、これを三の姫…そなたにと。剃髪された時のお髪の一房だそうだ」
 水良が文箱を更に押し出すと、三の姫はそれをジッと眺め、それからその上に伏して泣き出した。本当に済まなかったな。小さな肩が震えるのを見て声をかけると、しばらく水良は黙り込んだ。
 政のためとはいえ、こんな年若い姫が自分の思い人と添い遂げられないとは。
 …済まないことをしたな。初めに大納言から話があった時、きっぱりと断っていれば、あるいは三の姫も今頃は右大弁と…。目を伏せて、ようやく落ち着いて静かに身を起こした三の姫を見ると、水良は三の姫の手を取って優しく肩をつかんだ。
「三の姫、私には思う人がいる。妃となったそなたには申し訳ないが…まだ心が定まらぬ。それはそなたも同じであろう」
「春宮さま」
「兄上にもし皇子が生まれれば、私も東宮の位を下りて、また佐保宮で暮らせるかもしれぬ。そうなれば右大弁どのを還俗させ、そなたと添わせられるよう道を探すこともできよう。三の姫、今は辛かろうが…私を信じてはもらえぬだろうか」
「本当に…本当に、信じてもいいのですか。でも…とても無理ですわ、そんなこと」
「考えられぬかもしれないが…万に一つ、絶対にないとも言えぬ」
 目の前の春宮は、以前、宴で見かけた春宮とは違って見えた。力強く言い聞かせられて、三の姫はただ黙って頷いた。水良を見つめたまま何度も、何度も頷き、あなたを信じますと一言だけ答えて三の姫は水良の手を握り返した。

 
(c)渡辺キリ