水良の元に行忠の三の姫が入内したことを聞くと、馨君は宮中を退出したその足で萩の宮姫の元へ向かった。
月の綺麗な晩で、止める従者を尻目に牛車を先に行かせて、馨君は腕のたつ随身数人と共に京の町をそぞろ歩いた。牛車には亥の子餅をたくさん積んでいて、着いたら俺じゃなくて餅が乗っていて、蛍宮家の方々はさぞかし驚くだろうなと思うとおかしかった。
「今日はご機嫌がよろしいようですね、中将どの。最近、ずっと鬱々としておられたが」
随身に言われて、馨君はうっすらと笑みを浮かべてそんなことはないよと答えた。こんな所にまで心配をかけていたか。全く…何をしてるんだろう、俺は。風がそよそよと馨君のほつれ毛をなでて、馨君は懐に入れた笛を取り出して吹き始めた。
水良は笛はからっきしだったな。
面白いほど、音が出なかった。あれでは妃を楽しませることもできまい。内裏へ戻って少しは上手くなったのかな。いずれ、冬の君に指南してもらうよう申し上げねば。
そぞろ歩きながら一曲終える頃には蛍宮家へ着いて、東の対では牛車から下ろした亥の子餅を蛍宮家の女童たちが声を上げて取り合っていた。それを見てニコリと笑うと、馨君は蛍宮と北の方に挨拶をするために寝殿へ向かった。
「長の無沙汰をお許し下さいませ」
馨君が頭を下げると、蛍宮は人のよさそうな笑顔で、こちらこそお悔やみを述べたきりでと答えた。亥の子餅をたくさん持って参りましたので、みなさまでお分け下さいと言って馨君が笑みを返すと、蛍宮は頷いてありがたいことだと目を細めた。
「姫も待っておる。私たちと語らっても詮方ないことだろう。早速、顔を見せてやっておくれ」
「はい」
赤くなってもう一度頭を下げると、馨君はまたいずれゆっくりと笛を合わせましょうと付け加えて立ち上がった。女房に先導されて萩の宮姫のいる対へ急ぐと、馨君は御簾を下ろした廂に座を作るよう女房に頼んだ。
怒っておられるだろうか。
馨君が廂に座っておずおずと挨拶をすると、萩の宮姫の返事はなかった。やはり怒っておられるのだな。当たり前か…喪が明ければすぐに伺うと言ったのに。次々と下がって行く女房たちを見て心細く思いながらも馨君が長の無沙汰、申し訳ございませんでしたと頭を下げると、ふいに萩の宮姫の声が響いた。
「どうぞお入りになって」
「…しかし」
「どうぞ」
萩の宮姫の言葉に、馨君は緊張しながら御簾の隙間からするりと中へ身を入れた。几帳の前に馨君が座ると、萩の宮姫は几帳の隙間から扇をかざしてジッと馨君を見つめた。
…萩の宮姫。
私は、あの方に二人目の妃が入内遊ばされたと聞いて、もうあのことは終わったのだと、悟ったのです。
私から会いに行かねば、あの方から来られることはない。なれば…私さえ諦めれば、すべてが上手く収まるのです。水良には幸せになってほしい。よい妃と、そしてよい皇子と共に、いつも笑っていてほしい。
それを守ることで、この恋を昇華させたいのです。
目を伏せて、馨君はお詫びしようと思ってもしきれることではないがと呟いた。俺もきっと…あなたと共にいれば、いずれは心も落ち着くだろう。萩の宮姫なら、主上もきっと諦めて下さる。馨君が黙り込むと、ふいに几帳の端から萩の宮姫が顔を出して馨君を心配気に見つめた。
「中将さま…私、謝られるようなことは何もございませんことよ」
「姫」
「あなたさまが二条の方さまに可愛がられていらっしゃったというお話は、伺いましたもの。私も、もしおばあさまがお亡くなりになったらと思うと…考えただけで気が塞ぎます」
「…ごめんなさい」
「え?」
萩の宮姫が尋ね返すと、馨君は首を横に振って膝で進んだ。そのままよいしょと几帳をどけると、萩の宮姫の手を取って柔らかな表情でそれを握りしめた。
きっと、忘れられる。
この恋情…狂おしいほどの恋慕の情を。
「姫、私はあなたが好きです…本当に」
馨君が言うと、萩の宮姫は赤くなって、笑った。来て下さってよかった。そう言った萩の宮姫の体を抱き寄せると、馨君は目を閉じてただ静かに何度も呼吸を繰り返した。
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