三日夜の餅を食べ交わして所露を済ませると、馨君の婚礼は宮中を越えて都中に広まった。
新しい御代となって春宮にも妃が入内し、後は主上の皇子の誕生を待つばかりと噂される中、政略とは関係なく恋を成就させた馨中将の婚礼は、まるできらびやかな絵巻物のようだと人々の表情をほころばせた。
「それでは…本当なのだな。萩の宮姫とのご婚礼の噂は」
珍しく梨壺に呼び出された冬の君は、慣れない武官束帯に身を包み、廂の端近に座ってこくりと頷いた。これまでにも話したことはあったけれど、いつも他の誰かと一緒で、女房がいるとは言え水良と二人で話すのは初めてだった。
「はい。喪が明けたばかりなのであまり華々しく所露をしてはと、父上の配慮で内々だけで祝いの宴を済ませました。落ち着いた頃に、こちらにもご報告をと」
「そうか…それはめでたいことだ」
脇息にもたれて扇を手に視線を伏せると、水良はふいに顔を上げて笑ってみせた。
「こちらからも祝いの品を届けさせよう。私は三条邸で世話になったこともあるので、中将どのは主上と並んで兄上のようなものだ…四の姫の兄上でもあるのだし、二人からよい物を選んで贈らせてもらおう」
「そうですか。兄上もお喜びになられると思います。兄上はいつも春宮さまのことをお気にかけておいでですから」
「え?」
水良が思わず腰を浮かして尋ね返すと、冬の君はおかしそうに笑って、それから袖の内で笑いを堪えてチラリと水良を見上げた。何だ。水良が尋ねると、冬の君はまだ目元を緩ませたまま答えた。
「いえ、春宮さまの笛が…怒らないで下さいませよ。絵はまるで生きている物のごとくお上手にお描きになられるのに、笛はどうしても鳴らせぬと。それで私を呼ばれて、いつか春宮さまに笛をお教えするようにと」
「馨君がそんなことを」
唖然として呟き、水良は腰を下ろした。それは…もうそなたはここへは来ぬということか。
お前の代わりに、冬の君を笛の指南にと、そういうことなのか?
俺は…以前と同じように、いや…以前にも増してお前を思い続けているというのに。
「…春宮さま?」
怪訝そうな声が響いて、水良はハッと顔を上げた。いや…何でもないのだ。そう呟いて、水良は冬の君をジッと見つめた。俺から行かねば、馨君の訪れはもうないのかもしれない。義兄としての立場、近衛中将としての立場でしか、俺を見てくれない。
「何でもない」
そう言って、水良はすまないが気分が優れないので下がってもらえるかと冬の君に頼んだ。心配する冬の君に休めば治るからと言い足して、水良は力なく笑みを浮かべた。
「いずれまた、そなたの笛を聞かせておくれ。馨君が勧めたぐらいなら、さぞかしよい音なのだろう」
それだけ言って、水良は立ち上がった。平伏した冬の君を見て本当にすまないと言い置いて、水良はそのまま女房を従えて母屋から出て行ってしまった。
何か粗相でもあったのだろうか。
緊張に震える自分の指先を見つめて、冬の君はようやく面を上げた。今、何の話を…兄上から聞いた笛の話だったか。やはり少し出しゃばり過ぎたのかな。
「左兵衛佐さま、どうぞお気になさらずに。春宮さまは夕べお休みになれなくて、一晩中、絵を描いておいでだったのでございますよ」
青ざめた冬の君を見て可哀想に思ったのか、梨壺の女房が優しげに声をかけた。お気を使わせてすみません。そう言って立ち上がると、冬の君はもう一度頭を下げて歩き出した。
春宮さまは内裏へ戻られてから、ずっと不快の日々を送っておられると言うが…本当だったのだな。
お体に障りがなければいいが。歩きながら考えて、冬の君はふと思いついて立ち止まった。そう言えばここには三の姫さまがいらっしゃるんじゃないのか。春宮さまのご様子を伺いたいからと言えば、少しは話も…気配だけでも感じられるかもしれない。
先導していた女房に声をかけて、三の姫さまにも挨拶をと冬の君が言うと、女房は怪訝そうな表情をしてもう一人の女房に先触れに行かせた。三の姫さまとはお知り合いでしたの? そう尋ねられ、冬の君は一瞬ためらってから頷いた。
「ええ、幼い頃に少し」
「まあ、不思議な縁ですこと。兼長さまのご子息と行忠さまのご息女が、どちらでお会いになるというのでしょう」
「会おうと思えば、夢の中でも会えるもの」
ムッとして冬の君が答えると、女房はそれっきりそ知らぬ顔で、戻ってきた女房と共に三の姫のいる昭陽北舎へ向かった。
昭陽北舎ではすでに東廂に座を設けられていた。父上の娘である四の姫は梨壺に間をいただいているのに、三の姫さまは離れた昭陽北舎におられるのか…。やはり世間の噂通り、春宮さまのご寵愛を一心に受けておられるという訳ではないのだろうか。兼長の二の君であることを告げ、東宮妃入内の祝いの言葉を重ねて述べると、冬の君は御簾の奥に目を凝らした。
この中に、あの方が。
本来なら…会えずに終わった人。五条にいたままの私なら、雲の上の人なのだ。何を話せばいいのかと迷って冬の君が口ごもると、御簾内にいた女房が三の姫の代わりに答えた。
「左兵衛佐さまもご元服なされた由、おめでとうございます。我が父上も左兵衛佐さまの立派なお姿を随分褒めておりました」
「いいえ、まだまだ若輩でございます。行忠どのにはこれからもご指導いただければと思っております」
頭を下げて冬の君が言うと、ふわりと香の匂いがかすめたような気がした。あの方の香りならよいのだけれど…考えながら、冬の君はそろりと御簾内へ視線をやって尋ねた。
「三の姫さま…私のことはやはりお忘れでしょうか」
おずおずと言った冬の君に、女房からも三の姫からも返事はなく、当惑している気配だけが伝わった。やはり覚えてなどいる訳がないな。あれ一度きりのことだもの。落胆して思わず息をつくと、冬の君は目を伏せて、遠かりし日の櫛稲田(くしいなだ)と呟いた。
「あなたさまの大切な櫛をお預かりしています。いずれ、お返しに参上いたします」
「え?」
冬の君が言うと、三の姫の声が響いた。姫さま。たしなめる女房の声もして、冬の君はカアッと赤くなった。今のは三の姫さまのお声か。そう考えて息をつくと、失礼いたしますと言って深く平伏し、冬の君は気もそぞろに立ち上がった。
「…姫さま、左兵衛佐さまをご存じですの?」
行忠邸から来た三の姫付きの女房が、怪訝そうに尋ねた。几帳の内でいいえときっぱり答えると、櫛稲田とはどういう意味なのかしらとぼんやり視線を伏せて、三の姫は脇息にもたれた。
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