13
弘徽殿の腹がせり出してきたのを見ると、子供の頃に母上が内親王をお生みになられた時のことを思い出すよと言って、惟彰は懐かしそうに目を細めた。
そんな惟彰を前に、馨君は困ったように小首を傾げてジッと惟彰を見上げた。今日は珍しい香が届いたので調香を見てほしいと言われて御前に参上していた。昼の御前ではなく前と同じ朝餉の間で、以前のように碁盤を挟まず対峙すると、惟彰を久しぶりに近くに感じた。
「弘徽殿さまは順調であらせられますか。しばらくお伺いもしておりませんが」
馨君が尋ねると、香壺箱の蓋を嬉しそうに開いて惟彰は目を伏せたまま頷いた。調子はいいみたいだ。そう言った惟彰の顔を見ると、馨君は苦笑して口を開いた。
「お香でしたら、弘徽殿さまがお得意でしょうに」
「そういう時は、嘘でも藤壺に任せれば素晴らしい練り香ができますよと言うもんだ。相変わらずだな、そなたは」
呆れたように言って馨君の顔をジッと見つめ返すと、惟彰は中から香壺を取り出しながら言葉を続けた。
「馨君…萩の宮姫を娶ったそうだね」
「…はい」
言葉少なに馨君が答えると、惟彰は壺をまた箱の中に納めて尋ねた。
「それは…そういうことなのか。私に対する返答だと」
伏せた惟彰の頬に、まつげが影を落としていた。あなたに…申し上げるのは辛いけれど。静かに呼吸を繰り返すと、馨君は頷いて答えた。
「はい…あなたさまへのお返事の代わりに」
「そうか。萩の宮姫ならば致し方あるまい」
目を伏せたまま呟くと、惟彰は香壺に触れながらしばらく言葉を探した。その表情からは感情は読み取れず、馨君が不安になって顔を上げると、惟彰は寂しげに笑って馨君を見つめた。
「春宮もさぞかし落ち込んでいることだろう。そなた、主上を二人も袖にするとは」
「申し訳ございません。なれど…」
「よい、分かっている。私がもしそなたを手に入れれば、そなたに溺れて全てが疎かになろう。どこぞの姫ならそれもよいだろうが、相手がそなたと公卿たちに知れれば兼長どのも藤壺も立場がなかろう」
「…」
「水良もそれは同じこと。それにしても…長い間、そなたに振り回されたものだ」
「主上」
「幸せになれ。私もそなたの幸せを祈っている」
ふいに馨君が惟彰の肩に自分の額を押しつけた。その腕を痛いほど強くつかんで、驚いた惟彰の前で馨君は泣いた。ずっと見ていてくれていた。この尊い人が、俺を見守っていてくれたのだ。
いつも、優しい目で。優しい声で。
「惟彰…ごめん」
惟彰の耳元で、馨君がかすれた声で囁いた。馨君の突然の動きに緊張した女房たちを制して、惟彰は馨君の体を柔らかく抱きしめた。そなたが望んだ道なら、構わぬ。そう答えた惟彰の声が悲しかった。
しばらく惟彰の肩を借りてジッと息をひそめると、馨君はふいに離れて一歩下がった。どうぞ幾久しくあなたさまに幸運が訪れますように。そう言って深く平伏すると、馨君は立ち上がって朝餉の間から立ち去った。 |