玻璃の器
 

 弘徽殿の皇子が生まれた知らせは内裏中を駆け巡った。
 梨壺を初め、公卿や殿上人たちからも次々と祝いの品々が届いた。生まれたばかりの赤子は、何も知らずにすやすやと寝息を立てて眠っていた。乳母の一人が抱く我が子の寝顔を眺めると、濃子はただ涙を流した。
 弘徽殿よりも数日前に生まれた行忠の一の姫と式部卿宮柾目の赤子は姫君で、弘徽殿の皇子が生まれると、一の姫のいる東北の対にも祝いの品々が届いた。明らかに弘徽殿の皇子を意識した世間の動きだった。世の流れなど分からぬものだ。考えながら、柾目は子が生まれたばかりの一の姫のいる東北の対を訪れた。
「殿…どこへいらしてたのです」
 力のない、それでも咎めるような声が響いた。一の姫は産褥期でまだ床についていた。姫君を抱いていた乳母が御簾をめくって廂に出、柾目に見せた。
「お殿さまによく似た、美しい姫君でございますわ」
 柾目が視線を向けると、色白の涼やかな顔立ちをした赤子が布にくるまれて眠っていた。チラリと視線を向けて、柾目はまた御簾の内に目を凝らした。一の姫との間はとっくに冷えていた。
「弘徽殿さまの所では、皇子が生まれたそうですわね」
 まだ苦しいのか、一の姫が小さな声で尋ねた。それをそばにいたお付き女房が伝えた。まだお目にかかってはおりませんが。柾目も言葉少なに答えた。しばらく沈黙が続いて、それから一の姫の冷ややかな声が柾目の耳に届いた。
「私がこんな大変な思いをして姫を生んでいる時、殿は一体どちらへいらしてたのです。どこぞの卑しい女に通っているなどという噂が流れるぐらいなら、どうか私よりも身分高い姫君にお通い遊ばせ」
 一の姫の言葉すら心に届いていないかのように、柾目は黙ったまま立ち上がった。私は弘徽殿さまのご機嫌伺いに行かねばなりませんので。それだけ告げると、女房の先導も断って柾目は東北の対を辞した。
 何もかも、どうでもいいことだ。
 今となっては…見せられた赤子も、まるで自分の子ではないような気すらした。そうだ…私の子は、弘徽殿の皇子のみ。あれだけが私の大切な赤子。
 袖を翻して簀子を歩くと、渡殿の途中で柾目はふと庭を眺めた。愛する我が子を…いつか見せてやらねばな。あの男も、きっと私の子を見たいに違いない。
 あんなに私を愛していたのだから、きっと私の子も愛するだろう。
 そう考えると、ふつりと喜びが湧いて柾目は笑みを浮かべた。

 
(c)渡辺キリ