年が明けると、馨君は十七の年を数えた。
新年を迎えた内裏は正月行事で忙しく、弘徽殿から行忠邸へ里下がりしていた濃子の出産が重なった。白装束に身を包んだ女房たちが急がしそうに立ち居ふるまい、行忠が手配した坊主たちの読経の声が響く中、元気な産声が上がった。皇子さまがお生まれでございます! 女房の声が大きく響いて、行忠は真っ赤な顔で腰を浮かした。
「誠か!? 誠に皇子さまか!」
「はい、玉のようにお美しい男の子でございます。おめでとうございます!」
出産に立ち合っていた女房が、涙ぐんで行忠に頭を下げた。隣に座っていた濃子の義父も興奮したように行忠の肩を叩いてめでたいことだと喜んだ。濃子の皇子出産はまたたく間に内裏中に、そして都中に伝わった。
「本当か、本当に…皇子が」
藤壺で濃子の御子誕生を待っていた左大臣兼長は、がっくりと肩を落として大きく息を吐いた。父上…すぐにお祝いをお届けしなければ。御簾内から芳姫の声がして、兼長の隣に座っていた馨君も息をついて視線を伏せた。実際に生まれてみると…やはり恐ろしいな。藤の皇太后さまもまだ内裏におられるし主上を信じたいが…やはりご自分の子ともなると、可愛いものだろう。
「藤壺さま、どうぞお気を落としになられませんよう…主上は変わらず、あなたさまを一の妃として考えておられるのですから」
兼長が言うと、芳姫は大丈夫ですときっぱりとした口調で答えた。弘徽殿女御への祝いの手配のために立つ兼長を見て馨君と冬の君も立ち上がると、兼長は馨君の肩をポンと叩いた。
「一の君、そなたはこちらにいてくれ。二の君に手伝ってもらえれば何とかなろう」
「しかし」
「お前も顔色がよくない。新年の準備で忙しかったせいだろう。こちらで久方ぶりに藤壺さまの語らいのお相手をしておくれ」
そう言って、兼長は子供の頃のように馨君の頬を優しくなで、それから頼むと言って冬の君を連れ藤壺を出て行った。残された馨君が廂にあぐらを組んで座り直すと、ふいに芳姫の声が響いた。
「兄上、お元気がないみたいだけど…やはり弘徽殿さまのことで気に病んでいらっしゃるの?」
「いいえ…私は主上を信じておりますから」
目を伏せて馨君が答えると、芳姫は女房たちに酒と蒸し鮑や雉脯(ほしじ)などを持ってこさせた。小霧が馨君に杯を差し出して酒をついだ。ありがとう。そう言って笑みを浮かべると、馨君は姿勢を正した。
「新年だもの。しょぼくれていては福も逃げてしまう。藤壺さま、昨日は梨壺で美しい絵巻物をたくさん見せていただいたんですよ。絵巻を広げると、それはもう浄土にいるような美しさで、羨ましく思いました。私は笛は吹けるが、絵はあまり上手くありませんし」
「そりゃあ、あんな身近にお上手な方がおられれば、自ら手練だとは言えないでしょうね。けれど、兄上の絵は私、大好きよ。ほら、いつか宇治へ行った時の絵を見せて下さったでしょう」
「ああ、会恵さまの庵の松の絵ですか」
馨君がそう言って杯をあおると、芳姫はあれはよかったわと言って扇の内で微笑んだ。
「最近、藤壺でもしばらく合わせを催していないから、珍しい絵を取り寄せて絵合わせをするのもいいですね」
「そうねえ、絵もいいけれど、歌もいいわよ。兄上は苦手でしょうけれども」
笑いながら言った芳姫に、確かに私の歌はいつまでたっても上手くならないよと答えて、馨君も笑った。あははと声を上げて笑うと、馨君は目を細めた。
芳姫、ごめんね。
あなたの大切な人を…俺は悲しませてしまう。
水良と交わした睦言を、もし主上が知ったら…そう考えると今も胸がつぶれそうなほど苦しいけれど、やっぱり俺は水良を支えたい。何度も、何度も離れようとしたのに、会えばあっという間に時間と距離を飛び越えてしまう。
水良を思う時、心は飛んで天を軽やかに駆け抜ける。
「それなら、花河院と皇太后さまもご招待いたしましょう。この藤壺で、後世に残るような立派な歌合わせを催しましょう」
馨君がにこやかに言うと、女房たちがわあと感嘆の声を上げた。それで少しでも芳姫が元気になってくれれば。考えながら馨君が手の中の杯をあおると、芳姫はよろしくお願いしますわね、兄上と答えた。
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