玻璃の器
 

 なぜ戻ってしまったのだろう。
 知らなければよかったのに。
 水良に絵巻を持って下がるよう言われた女房たちと共に、朝顔も四の姫のいる間へ向かった。会恵さまの絵巻と水良さまの絵巻はやはりどこか似ておられるわねえ。絵に通じた女房が言って、朝顔がそんなものでしょうかと返答すると、そうよと答えてから先を歩いていた女房が冬の君に気づいて立ち止まった。
「左兵衛佐さま! さっき馨中将さまがおいでになられましたのよ」
「本当? 父上から絵巻の指図を聞いてきたのだけど」
「春宮さまもおいでになられたので、今から四の姫さまの所へ参りますの。左兵衛佐さまもどうぞこちらへ」
「父上が、新しく取り寄せて三条邸よりお届けした絵巻は春宮さまの元へと仰っていたのです」
 困ったように冬の君が言うと、それなら…と口を挟んで朝顔が手に持っていた絵巻を冬の君に見せた。
「おそらくこちらの絵巻でございますわ。私がお届けいたしましょう」
「そうか。じゃあ頼む。春宮さまと兄上の語らいの邪魔にならぬようにしてくれ」
 冬の君が言うと、朝顔は心得ておりますわと笑って、絵巻を持ったまま元来た道を戻りはじめた。
 お二人が子供の頃、三条邸でよく一緒に遊んでおられたとは聞いたことがあるけれど、本当に仲がよろしくていらっしゃるのね。
 春宮さまのお加減がよくないと聞けば、ああして真っ先にいらして。気配を伺ってよさそうなら声をかけようと、そろりと水良のいる間に近づいて朝顔は耳を澄ました。
「…白梅院さまが」
 かすかに馨君の声が聞こえて、朝顔は廂の端の御簾を下ろした所からそっと中を伺った。絵巻物を見ながら、二人で何か話しているようだった。遠慮した方がいいのかしら、でも…。そこに馨君がいると思うと胸がうずいて、朝顔はそっと御簾の端をめくって中を覗いた。
 …あ。
 御簾をめくったほっそりとした白い手が、かすかに震えた。水良が何か囁いていた。その表情にドキンと鼓動が大きく打って、朝顔は思わず目を凝らした。直感は見てはいけないと告げていたのに、体が動かなかった。
 馨君の手がためらうように水良の背中に触れ、そのまま何度も優しげにそこをさすった。その華奢な手で水良を抱きしめると、愛おしそうにこめかみを水良のこめかみに押しつけて、馨君は口を開いた。俺も愛している。唇はそうかたどって、その後、名残惜しそうに閉じた。まるで互いを支えあうように強く抱き合って、それから水良が馨君に口づけをした。
 どういうこと。
 どういう、ことなの。息苦しくなって、朝顔は御簾をギュッとつかんだ。馨君が水良の顔を覗き込んで。
 御簾から手を離して立ち上がると、朝顔は絵巻物を廂に置いたままそこを離れた。袖で口元を隠して、朝顔が青ざめたまま早足で梨壺を離れると、途中、同じ梨壺に勤める女房とぶつかった。まあ、朝顔。顔色が悪いわよ。心配げに声をかけた女房に何でもないのと答えて、朝顔は自分の局に入った。
「あら、朝顔。春宮さまの絵巻物を整理していたのではなかったの?」
 同じ局を使っている若い女房に驚かれて、少し気分が悪くてと答えて朝顔は大きく息をついた。大丈夫なの? そう言った女房に無理に笑ってみせると、朝顔は脇息にしがみつくようにもたれてそこに顔を伏せた。

 
(c)渡辺キリ