玻璃の器
 

 追儺の前にお忍びで春宮が白梅院邸を訪れた以外は、いつも通りの一年の終わりで、鬼やらいの声が紫宸殿に大きく響いていた。陰陽師が祭文を読み上げている頃、梨壺では厄払いの振り鼓を振る音が軽快に響いていた。
 馨君の代わりに梨壺の年末年始の準備を任された冬の君は、目に見えて元気のない春宮に心を砕きながらも、左兵衛佐として初めての追儺に興奮を隠せずにいた。大人びているようで、まだ子供ですわねえ。三条邸から四の姫についてきた女房たちが、振り鼓を手にしたまま指図する冬の君を見て笑った。
「ああ、それは兄上か父上に聞いてみなければ分からないな。すぐに行ってこよう」
 新年に楽しむ豪華な絵巻を広げていた女房に、どれを東宮のいる間に運ぶのかと尋ねられ、冬の君はそう言って駆け出した。左兵衛佐さまご本人が行かずとも。そう言っておかしそうにクスクスと笑う女房たちに、御簾をめくって顔を出した水良が声をかけた。
「楽しそうだな。みんなご苦労さま」
「春宮さま。もったいないお言葉にございます。お加減はいかがでございますか」
 朝顔の隣にいた年嵩の女房がにこやかに尋ねた。少しやつれた顔で笑みを浮かべ、大分いいよと答えて水良は広げていた絵巻物に気づいて視線を落とした。
「これは…伯父上の描いた物だな」
「お分かりになられますの」
「分かるよ。伯父上も私と同じで色付けまで自分一人でやっておしまいになられるから、一目で分かる」
 嬉しそうに絵巻の表面を手でなでて、それから水良は振り向いた。廂に女房が来て平伏し、馨中将さまがお見えでございますと水良に言った。その後ろから姿を見せた馨君は、いつものように白い直衣に冠をかぶり、懐に挿した扇の紐の先に愛らしい鳥の彫物をぶら下げていた。春宮さま、お具合がよくないと伺いましたが。そう言った馨君を見上げると、水良は無理に笑ってみせた。
「大丈夫だ。少し寒い日が続いたので。馨君、これを見てくれ」
「絵巻でございますか…ほう、熊野参詣絵巻でございますな。会恵さまの作ですね」
「そなたにも分かるか」
 嬉しそうに言って、水良は自然に笑った。そりゃあ、持ち帰ったのは私ですから。水良の隣で屈んで絵巻を覗き込んだ馨君に、水良は何だと答えておかしそうに笑った。
「そう言えば、父上に頼まれて宇治まで絵巻を取りに行ったと言っていたことがあったな」
「ええ、まだ侍従をしておりました頃ですが…あの時、実は宇治で拝見したのですよ。会恵さまがたくさん絵巻を出してこられて…私は絵はよく分かりませんので、感想を求められて困りました」
 柔らかな視線で絵巻を眺めながら馨君が言うと、そうかと呟いて水良は馨君の横顔を眺めた。会恵さまは本当に絵がお上手ですわねえ。感心したように朝顔が言って、周りの女房たちも絵巻を覗き込んだりチラリと見たりしてさざめき笑った。
 何だか以前の…東一条邸にいた頃のようだ。
 目を細めて馨君が絵巻を見ていると、これは見たことがないだろうと言って水良は最近描いた絵を持ってくるよう女房に告げた。会恵の描いた絵巻物をクルクルと巻いて紐を結ぶと、今度は別の絵巻を開いて馨君に見せた。
「…これは」
「三条邸桜絵巻といった所か」
 ニコニコと笑って、水良は馨君の前に絵巻を引き寄せた。
 それは桜の季節の三条邸の絵だった。庭木や遣水の位置が驚くほど正確な位置に、そして内親王を孕んだ藤の皇太后…当時の藤壺女御が、女房たちを従えて東の対へ入って行く様や、管弦の宴が開かれ、馨君を初め四人の迦陵頻姿の童たちが高台に立つ姿が描かれていた。
 木の上に舞う桜の精と…白い童直衣を着る一人の皇子。
 カアッと馨君が首筋まで赤くなると、水良はジッと馨君を見つめ、それからパチリと扇を鳴らした。絵巻を持って四の姫の所へ。水良が指示すると、女房たちは広げていた絵巻物を片づけて、捧げ持ちながら四の姫の元へ向かった。
 ガチガチに緊張したように体を強張らせた馨君に、水良は絵巻の表を指でそろそろとなでた。勝手に描いてごめん。低い声で呟くと、水良は顔を上げて馨君をそっと見つめた。
「…やっぱり、顔色がよくない」
 真っ赤になった馨君が、それでも心配げにかすれた声で言った。ジッと見つめ合うと、水良は馨君の耳元に唇を寄せて小声で囁いた。
「おじいさまの所へ行った。お前ももう聞いたろう」
「ご不快があられたとか…私も見舞いの品を届けさせましたが」
「おじいさまはもう俺のことをお分かりにならない」
 そう呟いて、水良は馨君の顔を見据えた。口をつぐんだまま青ざめた馨君に、水良は絵巻に視線を落として言葉を続けた。
「物の怪がついていると陰陽師は言っていたが…それも本当かどうか分からない。俺が行くと、伯父上と間違われるのだ。あの気位が高くいつもご立派な姿をしておられたおじいさまが、涙を流して俺に…いや、伯父上に主上の御座についてくれと頼まれるのだ。父上を廃し、春宮として梨壺に戻ってくれと」
「…白梅院さまが」
「他言無用だ。まだ兼長どのも知らぬ」
 そう言って、水良は目を伏せて黙り込んだ。また一人…遠くへ行ってしまう。あんなに俺を可愛がってくれたおじいさまが…もう俺のことも分からないなんて。
 馨君…お前も。そう思った瞬間、ギュッと肩を抱かれ水良は驚いて顔を上げた。馨君が腕を回して水良の体を抱きしめ、その華奢な手で何度も水良の背をなでさすった。その手は柔らかくて、目を閉じて馨君にもたれるとまるで母の腕に抱かれているような気すらした。手を伸ばして馨君の膝に触れると、水良はそのまま馨君の体を抱き返した。
「愛してる…お前を、愛してるんだ。お前にはもう…迷惑だろうが」
 水良の言葉に、馨君は黙ったまま首を横に振った。強く抱き合うと、熱い息を吐いて馨君は水良の耳元にそんなことはないと呟いた。今だけでも、水良を支えたい…求められるままに、この人が崩れないように。
「白梅院さまがお前を忘れるはずがないよ。水良…今は少し、お加減が悪いだけだ」
「馨君…お前は俺を忘れないでくれ。頼む…忘れないでくれ」
「忘れないよ、お前を忘れるなんて」
 腕をたどって馨君の手をつかむと、水良は一瞬、触れるか触れないかというほどの淡い口づけを落とした。馨君のふっくらとした唇が、赤く色づいていた。約束は、もうそれだけでいい。そう言って手を離すと、水良はようやく屈託なく笑った。

 
(c)渡辺キリ