玻璃の器
 

 もし弘徽殿に皇子が生まれれば…水良は廃太子となるだろうか。
 牛車から降りると、柾目は中門から東の対へ入った。白梅院邸はいつものように綺羅びやかで、懐かしさと違和感を同時に覚えながら柾目は女房について寝殿に向かった。
 子供の頃、よく遊びにきたものだ。その頃はまだ…故皇太后もご存命だった。
 思わず立ち止まって壺庭を眺めていると、先を歩いていた女房が遠慮がちに柾目を促した。院がお待ちでございますゆえ。小さな声にまた歩き出すと、寝殿の南廂に通されて柾目は円座に腰を下ろした。
 外では雪がちらついていた。
 いつもどこか騒がしい白梅院の邸内も、今日は静けさに満ちあふれていた。白梅院さまにはご機嫌麗しゅう。柾目が簡単に挨拶をして頭を下げると、御簾内から白梅院の低く艶やかな声が響いた。
「秋の除目で、式部卿宮となったそうだな。めでたいことだ」
「いえ…前式部卿宮どのも何年か前からずっと、出家を考えておられたそうなので」
「そうか、そなたの父母は二人とも元気にしておるのか」
 白梅院の言葉に、柾目は少し息を止め、それから元気にしておりますと答えた。冷たい風が御簾を揺らした。黙ったまま目を伏せた柾目に、しばらくして白梅院が口を開いた。
「春宮もようやく妃を娶った。いずれ皇子も生まれよう」
「…白梅院さま」
「これで朕も思い残すことはない。いつでも故皇太后の元へ胸を張って行くことができる。あれも水良が主上となることを望んでいよう」
 柾目が顔を上げると、白梅院は大きく息をついた。青ざめた柾目には気づいていない。最後まで…あなたさまは水良だけを。スッと心が冷えて、柾目は震える拳に力を込めた。
 もし弘徽殿に皇子が生まれ、その子が東宮の地位についたら…それは私の血なのだ。
 私の血が、主上の御座につくのだ。弘徽殿に皇子が生まれれば、水良は梨壺を辞すだろう。あなたはそれを知っているのか。
 知るまいな。水良の気持ちなど…誰の気持ちも考えたことのないあなただ。水良が今の立場に満足していると思っているのだろう。あの愚かな男が、何を大切にしているかも知らないで。
 私の子…背筋にゾクゾクと快感が走って、柾目はうっすらと笑みを浮かべた。この上なく尊い御座につく主上の妃が、私の子を孕んでいる。
「白梅院さま」
 柾目の声が静けさを破ると、御簾内で白梅院が顔を上げた。柾目か。まるで今、気づいたかのように名を呼んで、白梅院はにこやかに声をかけた。
「そのように廂におらずに、中へ入ってくるがよい。さあ、火桶で炭がはぜておる。団喜をあぶってやろう」
「…」
 様子のおかしい白梅院に、怪訝そうな表情で柾目は立ち上がった。御簾をめくって柾目が中に入ると、満面の笑みを浮かべていた白梅院は、柾目を見上げて驚愕の表情を見せ、後ずさった。
「何だ、従者が母屋へ入ってくるとは…誰か! この男を外へ出さぬか!」
「院…!」
「柾目! そなた柾目をどうしたのだ! あの子を連れてこぬか…柾目を! 我が皇子を!」
 目が合って。
 柾目は呆然と立ち尽くしたまま、怯える白梅院を見つめた。だらんと垂れ下がった柾目の手から扇がぽとりと落ちた。物の怪か…乱心か。なぜ、今になって。突然の発作にうろたえている周りの女房たちには目もくれず、柾目は御簾を乱暴に押して廂に出た。
 何ということ…!
 私が今までしてきたことは…何だったというのだ!
 まだ全てが終わったわけではないというのに…。
 物も言えずに青ざめたまま歩き出すと、寝殿から東の対へ向かって柾目は早足で歩いた。
「お待ち下さりませ!」
 中門から従者を呼んで牛車を用意させようとした柾目を追いかけて、白梅院付きの古参の女房が必死の形相で叫んだ。振り向いた柾目の前で平伏すると、どうかこのことはご内密に…と振り絞るような声で女房は柾目に頼んだ。
「…誰にも言わぬ。だが、そなたたち…誰も気づかなかったのか」
「申し訳ございません! すぐに護摩の手配を…」
「好きにするがよい」
 吐き捨てるように言うと、柾目は別の従者を呼んで牛車を回すように命じた。魂の奥底まで、怒りと空しさで震えていた。私が今までやってきたことは…ただひとえに私の存在をあの方に認めさせるためだったのではないのか!
 庭に回した牛車に乗り込むと、柾目は誰にも言わぬともう一度言い捨てた。ゴトリと音がして牛車が動き出すまで、柾目を追いかけてきた女房たちは肩を震わせて平伏していた。

 
(c)渡辺キリ