玻璃の器
 

 高野へ戻る法師たちと別れて、会恵は花河院へ向かった。
 僧正姿から気軽な僧形に戻り、牛車を用意させますからという舎人たちを追い返し錫杖を手に持って院の門をくぐると、ほうと呟いて会恵は白木の美しい邸を見上げた。派手好みの白梅院とは違い、落ち着いた風情を感じさせる花河院は、上皇が住むにはこぢんまりとした二町の造りだった。内裏にいた頃にはそれぞれの御殿に住わせていた女御や更衣たちも、今ではそれぞれに別々の邸を与えていたために、ここには花河院と女房、そして腕の立つ従者や随身たちだけが住んでいた。
「父上を見習って、少しは女御たちも呼び寄せてはいかがか」
 寝殿の廂に通されて会恵が円座に腰を下ろしながら言うと、花河院は書いていた文から顔を上げずに笑って答えた。
「御位を下りてから皇子がポコポコと生まれては、今主上も立つ瀬がなかろう。皇太后だけはこの邸に来るよう文を書いておるのだが、一向に来てくれぬ。藤壺に皇子が生まれるまではと頑張ってくれているらしい」
「藤の御方か。あれは本当に気丈な女だ。会うたびに感心すること然りだな」
「惜しいですか、本来ならば兄上が娶るはずだった姫君だ」
 からかうように言って、院は書いた文を女房に渡し、人払いを頼んだ。綺麗に着飾った女房たちが次々と局に下がって行くと、その様子を見ながら会恵はあぐらを組み直して言った。
「宇治で隠者のような暮らしをしていると、高野ですら綺羅綺羅しく見えるもの。まして内裏は何とやらだ。久しぶりに惟彰に会ったが、すっかり御座が板について、まるで何十年も前から主上だったかのような顔つきをしておったよ」
「頭がよい方だからね。ああいう所は母譲りだ。私に似なくて心底ホッとしているよ」
「顔はそっくりではないか」
「外見だけさ」
 そう言って、院は硯箱の蓋をカタンと閉めた。一瞬、静寂が訪れた。巻き上がった御簾の向こう、会恵の肩ごしに雪が降っているのが見えて、院はおや?というように眉を上げた。
「初雪か」
「今頃は内裏で見参と騒いでいる頃だろう」
「ああ…あそこは騒がしい所だ」
 目を伏せて、それから立ち上がると、御引直衣の裾を引きずって院は高欄まで出てきて外を眺めた。絢子にこの景色を見せたいものだ。院がそう呟くと、会恵も庭が見えるように座り直してしばらく黙ったまま初雪の清らげな白い結晶を眺めていた。
 ひとつ、ひらり。ふたつひらり。
 石に落ちては溶けていく。
「…こんな夜だったな」
 ふいに院が口を開いた。ピクリと緊張して、会恵はジッと院を見上げた。
「まさか兄上のおられる梨壺に、その後、私が入ろうとは思ってもみなかった。兄上は主上になるのだと、疑いもなくそう思っていた…」
「院…そのことは、二度と口にすまいと仰せになられたはず」
「…私の心は、あの夜と少しも変わっていないのです。兄上…私が女五の宮を望んだことを、今も恨んでおられますか」
「恨んでなどおらぬ。ただ、今生では縁を結べなかっただけのこと」
「五戒を受ければ、兄上のように達観できますか」
 そう尋ねて、院は振り向いた。冠の纓が肩にかかった。白い直衣は雪に似て、また非なる物だった。会恵が院を見据えたまま黙り込むと、院は優しげな目でまた庭を眺めた。
「女五の宮も、私を恨んでおいでだろうな」
「かの姫宮は、そんな感情とは無縁の方だった」
「私の気持ちは、女五の宮もご存じだった。だから兄上と契られたのです」
 院の言葉に、会恵は息を呑んで思わず腰を浮かした。まさか。そう言った会恵に院は振り向いて、ゾッとするような柔和な笑みを浮かべた。
「私が兄上を慕っていると知っていたから、かの姫宮は水良を生んだのだ」
「院」
「私は水良が愛おしい。それは兄上の子だから…水良を誰に反対されることなく、憎まれることもなく、みなの祝福の中で水良にふさわしい主上の座につけたいから、惟彰を東宮の座に据えたのです。そうすれば白梅院が黙ってはおるまい。父上は惟彰よりも水良を愛しているから、水良に母がおらずとも、きっとどんな手を使っても水良を主上の地位へ押し上げてくれるはずと」
「よせ…もうやめてくれ…」
 自分の膝をつかむと、会恵は俯いた。その顔を見ると、院は視線をそらして降り続ける雪を眺めた。小さな結晶だった雪は、いつの間にか牡丹雪に変わっていた。高欄から手を離して母屋に戻ると、脇息に手をついて院は茵に腰を下ろした。
「私は…水良を大切な甥と思いこそすれ、我が子とは思わぬ。それが女五の宮の意志であったはず…頼むから、水良が望むようにさせてやってくれ」
「…もう遅すぎる」
 目を伏せると、院は懐から扇を取り出して開いた。その望みは…やはり我が子と思えばこそ。
 縁を結んでいたのは私ではなかった。水良、そなたの存在が、女五の宮の亡くなった今でも兄上とかの姫宮の縁を結んでいる。私ではなく…兄上が愛した女と。
「皇太后とここでしばらくゆるりと過ごしたら、私も出家をと考えている。その時は兄上…いや、会恵どの。またここへ来ていただけまいか」
 ふと顔を上げて院が言うと、会恵はしばらくジッと花河院の顔を見つめ、それから御心のままにと答えて平伏した。水良…どうかお前に、妙なる幸福を。目を閉じて息をひそめると、会恵は一心に水良を思った。

 
(c)渡辺キリ