玻璃の器
 

 新穀を天神地祇に捧げ、主上自らも身を浄めて新穀を口にし五穀豊穣を祈る大嘗祭が済むと、中の辰の日に豊明節会が行われ、五節の舞姫が五度袖を翻して身を浄め、一連の行事は終わる。
 豊明節会の後、ほんの一時、内裏は静寂に包まれた。祭りの後特有の寂寞とした空気が内裏にただよって、冷たい風が馨君の纓と袖を揺らした。
「何だ、しけた顔をして。元気がそなたの取り柄だろうに」
 左近の陣から出て四の姫の機嫌伺いに行こうとした所で、内裏を下がる高野の僧たちに出くわした。ふいに声をかけられ、脇に避けていた馨君が驚いて顔を上げると、僧たちの中から一人、僧正の格好をした背の高い男が出てきて笑った。
「会恵さま!」
 驚いて馨君が声を上げると、中将になったそうだなと言って会恵は破顔した。お久しぶりですと言おうとして、ドキンとして言いそびれた。そうだ…この方は、水良の父上なのだ。
 そう考えてみると、水良は花河院よりもずっと会恵に似ているような気がした。水良の絵の才は、父親譲りだったのか。ポカンと口を開いて会恵を見ていると、会恵はそんな馨君に苦笑していかが致したと尋ね返した。
 他の僧に後から追いかけるからと言い残して、会恵は馨君の肩を気軽に抱いて般若湯でもごちそうしてくれんかと言って笑った。禁中ですよと馨君が渋い顔をすると、会恵はバンバンと馨君の肩を叩いて答えた。
「そなたの生真面目さは祖母上ゆずりだな。そう四角四面に考えてはいかん」
「されば、三条邸にでもおいで下さいませよ。あそこなら客人としてお招きできましょう」
「三条邸か。俺は兼長どのにはいろいろと借りがあるからな。顔を合わせるにはまだ少し功徳が足りぬ」
「では、梨壺へおいでになればいかがです。私よりも春宮さまと飲み交わす方が喜ばれましょう」
「喜ぶとは俺がか? それとも春宮が?」
 そう問われて、馨君は一瞬口ごもり、伯父上と甥の間柄、さすれば両方でございましょうと無難に答えた。残念だが、今回は水良には会えそうにもない。そう言って、会恵は馨君の肩から手を離した。
「この後、院に呼ばれているのだ。主上を退位したかと思ったら、更に気軽にお召しになられるので困っておる。どうせなら私ではなく皇太后を呼び寄せればよかろうに」
「ご兄弟、仲がおよろしくてよいではありませんか」
「そうかな…そうだな」
 そう言って、まるで子供にするように馨君の額をグイグイとなでこすると、会恵はもう行かねばと言って目を細めた。また宇治にも参れ。そう言って目の皺を深めて笑うと、会恵は袖に手を入れてゆったりと歩き出した。
 やはり似ているな、水良に。
 院が父上ではないと知った時はうろたえもしたが…今では会恵さまが水良の父上と聞いて安堵したような気もする。あの方が父上なら、水良も誇りが持てよう。
 いずれ宇治に…それもいいかもしれない。今の忙しい身の上ではいつになるか分からないが、色んなことが片付いて少し落ち着けば、宇治に出向いて会恵さまと語らってみたい。会恵の後ろ姿を見えなくなるまで見送ると、軽く頬を叩いて馨君は梨壺に向かった。
 すべて、俺の心の内が思い出になったなら、宇治でしばらく会恵さまと共に静かに過ごすのもいいのかもしれない。

 
(c)渡辺キリ