玻璃の器
 

 惟彰の御代となり初めての大嘗祭が行われた。
 木枯らしも吹きはじめ、薄い色の空に雲がたなびく気持ちのよい秋晴れの日だった。今年は兼長の家司の娘も五節の舞姫として仕立てられ、中の丑の日に内裏へ参入した。夜には帳台の試みといって御帳台へ主上が出御して舞を見、中の寅の日には清涼殿にて舞御覧が行われる。
 その日の夜、清涼殿で公卿たちを召して酒が賜われた。今年の舞姫はみなが力を入れたおかげで常にも増して美しいという公卿たちの囁きを耳にしながら、馨君は退出するために惟彰の元へ挨拶に向かった。
「いっそ、兼長どのの家司の娘といわず、中将どのがお出になられた方がよかったのでは」
 途中、からかうような公卿の声も聞こえ、馨君は曖昧な笑みを返した。そうすれば思うがままにことが進むと言うのなら、いくらでも舞おう。息をついて惟彰のいる御帳台の前の廂に座ると、平伏してから馨君は笑みを浮かべた。
「主上、今宵はよい酒を賜りました。中の辰の日にはまた五節の舞姫も見事な舞を見せ、主上の千代に続くめでたい御代を後々の世まで語り継がれるような、立派な大嘗祭となりましょう」
「ありがとう。もう退出するのか、馨中将どの」
「はい。早く帰って内裏の様子を義父母に伝えとうございます」
「そうか。最近では冬の君に続いて馨君も三条邸に戻らぬと、兼長が愚痴っておった。親というのはどちらにせよ心配するものなのだな」
「皇太后さまも、主上のことを常にご心配遊ばされておられましたよ」
 馨君がおかしそうに切り返すと、惟彰は母上に心配をかけていたのは私ではなく春宮だと不満そうに呟いた。しばらく語らった後、失礼いたしますと平伏して立ち上がると、馨君は先導しようとした女房を断って一人で歩き出した。
 父上とも内裏でしか顔を合わさぬ。さぞかし親不孝者と思われておいでだろうな。
 大嘗祭が終われば、一度は三条邸に戻らねば。目を伏せたままふうと大きくため息をつくと、ふいに女房の声が響いて、馨君は驚いて振り向いた。
「春宮さま、端近に出られてはなりません」
「構わぬ。下がってくれ」
 水良の声がはっきりと聞こえた。馨君が慌ててそこを立ち去ろうと歩を早めると、後ろで御簾がめくれ上がって水良が顔を出した。馨君。水良の声に、馨君は思わず振り向いた。水良。口元で名を転がして、足を動かすこともできずに馨君が水良を見ると、水良はグイグイと大股に歩いて馨君の腕をつかんだ。
「お前たち、下がっていろ。二人にしてくれ」
「は、春宮さま」
 腕を引っ張られ、焦った馨君が咎めるように呼んだ。女房たちが不審そうな顔をして間を明け渡した。主上のそばにおいでにならなければ。御簾内に引きずり込まれて馨君が言うと、水良は振り向いて馨君に向き直った。
「飲み過ぎたから休んでたんだ」
「…それなら尚更、横になっていなければ」
「なぜ萩の宮姫を娶った」
 馨君の腕を強くつかんで、水良が強い調子で尋ねた。ドキンとして馨君が水良を見上げると、水良は馨君の目を覗き込んで重ねて尋ねた。
「本当に、かの姫を愛しているのか。俺のことは…もう」
 愛していないと。
 言うんだ。それが水良のため。声を出そうと、馨君は強張った体で水良の腕から逃れようとした。
「お離し下さいませ、手を…」
「馨君が本心から萩の宮姫を愛していると言うなら、離す」
 そう言って、水良はそのまま馨君の華奢な肩を両手で抱きしめた。こんな宴の夜に、女房も下げたとはいえ、どこで誰が見ているか分からない。青ざめて馨君がお願いだからと振り絞るような声で囁くと、水良は馨君の肩に自分の頬を押しつけて苦しそうに呟いた。
「お前は俺の立場を考えたのだろうが、それも主上に皇子が生まれるまでのこと。東宮を辞せば、俺はまた東一条邸へ戻り、お前と…そう思っていたのに」
 水良の一言一言が胸に沁みた。そんなことを…考えていたのか。緊張していた体から力が抜けて、馨君は水良の腕の中で熱い息を吐いた。水良、俺だって、いつまでもお前と共にいたい。子供の頃のようにお前と笑い合えたら、どんなに幸せだろう。
 けれど…水良の体をゆっくりと押し返すと、馨君は俯いたまま黙って首を横に振った。もうお互い、独り身じゃないんだ。俺が萩の宮姫を娶らずとも、水良には…妃がいる。梨壺を辞して、あの東一条邸へ妃を住わせるのだろう。
 そう考えて、馨君は身の奥の深い所から込み上げてくる怒りに震えた。俺と共に過ごしたあの美しい邸に、他の妃を迎えると言うのか。顔を上げて、馨君はジッと水良を見据えた。言葉にならない。このままお前を恨みたくない…憎みたくない。
「私は、室を愛しております。あなたさまとのことは…すでに思い出の中に」
「馨君!」
「お許し下さいませ」
 そう言って、馨君は御簾を押して出ていった。華奢な背中が、水良の視界に焼きついた。黙ったままさっきまで腕の中にあった馨君の気配を探ると、水良は眉をひそめてもう一度、馨君の名を呟いた。

 
(c)渡辺キリ