玻璃の器
 

 日が暮れるまで三の姫と笑い合いながら話した後、引き止める三の姫に名残惜しさを感じながらも冬の君は昭陽北舎から出て歩き出した。
 やっぱり思っていた通りの姫だったな。おかしさを堪えて、冬の君はわずかな痛みを胸に感じながら内裏を出た。けれど…もう、あの姫は春宮さまの妃なんだ。目を伏せて息をつくと、冬の君は立ち止まって振り向いた。
 私がもっと早く…生まれた時から父上の元で育っていれば。
 いや、それは考えるまい。すでに定められたことなれば…仕方のないこと。目の覚めるような冷たい風が冬の君の首筋をなでて、冬の君は歩きながら無意識に懐に手を当てた。そこにはいつも挿している笛と、三の姫の櫛が入っていた。
 ああ、櫛を返しそびれてしまったな。
 項にほつれた毛が風に揺れた。今度伺った時は、櫛を返さねば。考えながらゆっくりと歩いていると、前から雅楽寮の楽人たちが笑いながら歩いてきた。冬の君の武官束帯を見て、楽人たちが脇に道を譲った。冬の君が軽く頭を下げて通り過ぎると、かすかにあっという声が響いて、冬の君は振り向いた。
「…椿の宮さま!」
 冬の君が息をのんで、それから名を呼ぶと、楽人たちの一番後ろにいた椿の宮が冬の君から隠れるように動いた。お待ち下さいませ! 慌てて回り込むと、その場を立ち去ろうとした椿の宮の袖をしっかりとつかんで冬の君は椿の宮を見上げた。
「高野からお戻りになっていらっしゃったのですね! ああ…本当にお懐かしゅうございます。なぜ知らせて下さらなかったのです」
「知らせることなど…できるものか」
 真っ赤になった椿の宮が、他の楽人たちの目を気にして冬の君の姿を自分の体で隠した。あちらへ。短く言って、椿の宮は冬の君の腕をつかんで歩き出した。
「椿の宮さま! 我らは先に参りますぞ!」
「すまないがそうしてくれ!」
 椿の宮の声が大きく響いた。その懐かしさに、冬の君はめまいを覚えた。よかった…お元気になられたのだな。涙のにじんだ目を袖で拭って、それから冬の君は椿の宮を見上げた。
「椿の宮さま、ずっと都におられるのでしょう」
「いや、一月ほどいるだけでまた高野へ戻るつもりだ」
「しかし…」
「参賀のために戻ってきたのだ」
「…」
「俺は都にいるよりも、今は高野にいる方が性に合っているのだ。冬の君」
「私のせいで、あなたさまが都から出て行かれたのなら、私は」
 顔を上げた冬の君に、椿の宮は口をつぐんだ。お前のせいじゃない。俺のせいなのに。
 どうしてお前は、そんな風に考えることができるんだ。ジッと冬の君を見つめて、椿の宮はふと目を伏せた。俺などただ親王家に生まれたというだけで、お前を俺の物にする資格など初めからなかったのだ。俺の笛の音は徐々に戻りつつある…けれど、お前の心はどうなのだ。
 俺に抱かれたお前の記憶は、いつまでもくすぶり続けるのではないのか。
 いや…それすら、俺の願望か。俺を長にお前の心に留めてほしいなど。フッと自嘲的に笑って、椿の宮は冬の君の肩をつかんだ。その感触は自らの命を絶とうとしたあの日以来で、椿の宮が黙ったまま冬の君を見つめていると、冬の君もジッと椿の宮を見上げた。
 私は、あなたさまをお慕いしておりました。
 それは本当のことなのです…母を亡くし、頼る者もなく私が一人で震えていた時、あなただけがぬくもりをくれた。椿の宮さま、あなたが私をどう思っていたのかは分からないけれど、私は確かに、あなたに抱いてほしかった。
 あなたのただ一人の人になりたかった。
 今は…もう遠い。
「…これは」
 冬の君の懐に挿した笛に気づいて椿の宮が尋ねると、冬の君は視線を下ろしてああと答えた。
「時の中将どのにいただいたのです。とてもよい音が出るので…持ち歩いているのです。いつでも吹けるように」
「そうか。そなた、笛を続けているのだな」
「はい。椿の宮さまが仰ったように、毎日吹いています。あの頃よりは少し上手くなったと思うのですが…」
 おずおずと冬の君が言うと、椿の宮はクッと笑って冬の君から手を離した。それならまたいずれ、笛の音を合わせよう。そう言って冬の君の頬にポンと触れると、椿の宮は早足で歩き出した。
「必ず!」
 冬の君の声が、後を追いかけた。その声を心地よく聞きながら、込み上げてきた熱い涙を袖でグイと拭って椿の宮は楽人たちを追って駆け出した。

 
(c)渡辺キリ