玻璃の器
 

 赤子を連れて内裏へ戻った途端、体調を崩しまだ床を離れられずにいる濃子の元へ、新年行事の合間を縫って足繁く通う惟彰に、殿上人たちはやはり次代の東宮は弘徽殿の皇子かと噂した。
「まあ、主上。手ずからお抱きになられるとは…」
 乳母が抱いてあやしていた赤子に手を差し伸べると、惟彰は嬉しそうに目を細めて皇子を抱き上げた。壊れそうなぐらい柔らかいな。そう言って、惟彰は黒く艶やかな目を覗き込んだ。赤子は乳を飲んだばかりでウトウトとしていた。そのふっくらとした柔らかな頬と、脱皮したばかりのような瑞々しい小さな手を見ると、惟彰はそっと赤子の頭をなでて微笑んだ。
「皇子さまは本当に主上に似ていらして。大きくお育ち遊ばしたら、きっと主上のようにご聡明におなりでしょうねえ」
 弘徽殿の最古参の女房が、にこやかに言って濃子の額の汗を布で拭った。穏やかな表情で惟彰に抱かれた皇子を眺めていた濃子は、起こしてちょうだいとそばにいた女房に頼んだ。
「無理をしなくてもいいんだよ。まだ体がつらいんだろう?」
「構いませんわ。あなたと皇子がいらっしゃる所を見たいの」
 そう言った濃子の顔色は悪かった。後ろから女房に支えられ、白い単衣の上から袿を羽織って濃子はジッと惟彰を見てハラハラと涙をこぼした。いかがした。惟彰が驚いて尋ねると、手に力が籠って赤子が泣き出した。
「あ」
 顔を真っ赤にして泣く赤子をどうしていいのか分からず、惟彰が狼狽えて女房を見ると、乳母が赤子を受け取って優しくあやした。私がお抱きするわ。そう言った濃子に、乳母がしかし…とためらうと、いいからと強い調子で言って濃子は赤子に手を伸ばした。
「いい子ね…父上に笑顔をお見せして」
「濃姫、慣れておるのだな」
 意外そうに惟彰が言うと、濃姫は乳母のやる通りにしているだけでございますと答えた。赤子を抱いた濃子のそばに座り直すと、惟彰は泣き止んだ赤子の顔を覗き込んで目を細めた。
 不思議だ…赤子が生まれてから、濃姫を我が妃と思うようになった。
 それまでにも私の妃には違いなかったのに。
「…皇子を生んでくれてありがとう、濃姫」
「主上」
「主上の御座についた時よりも、嬉しかった。胸の内から喜びが湧きあがるようだ。濃姫、早く元気になっておくれ。母上も内親王をお生みになられた時、寝込んでしまわれたが…あの時の父上のお気持ちがよく分かるよ」
 惟彰の言葉に濃子が嬉しそうに微笑むと、泣き止んだ赤子が手を伸ばした。その小さな小さな指に自分の指を絡めると、身を乗り出して惟彰はいい子だと囁いた。赤子は確かに惟彰に似ていた。主上、あなたさまの皇子でございますよ。そう答えると、濃子は赤子と惟彰の手を眺めて笑った。

 
(c)渡辺キリ