玻璃の器
 

 冬の君と共に藤壺の歌合わせのための準備を始めた馨君は、歌上手や声のいい官人を集めるために人を手配した。同時に藤壺の調度を歌合わせのために入れ替えようと、意見を聞くために雅に通じた蛍宮や前式部卿宮の元にせっせと通った。
 そうして忙しくしていると、心の憂さが少しだけ晴れたような気がした。打ち合わせと称してご機嫌伺いに藤壺を訪れた馨君は、久しぶりに惟彰が来ていると女房に聞いて緊張したように体を強張らせた。
 あれから水良と何があった訳じゃないけど…やっぱり後ろめたい。
 水良とは終わったのだと、そう告げたばかりだったのに。
 モヤリとした気持ちを無理に振り払い、女房に案内されて馨君は藤壺の廂に座って挨拶した。御簾を上げておくれ。母屋の中で芳姫と語らっていた惟彰が女房に言い付けた。いえ、そのままで。遠慮がちに言った馨君に、そなたの顔が見たいのだと答えて惟彰は笑った。
「弘徽殿に子が生まれたので、今、そなたの妹君に拗ねられていた所だ。そなたなら私の味方をしてくれよう」
「あら、私はおめでたいことだと申し上げたのですわ。主上は弘徽殿さまの赤子をいつもお抱きになるのですって。だから、私も赤子を抱いてみたいわって」
「思う所には子ができず、思わぬ所にできるのは世の常なのかもしれぬ。弘徽殿へ行っても、赤子を挟んで話しているとまるで母上と相対しているようだよ。あなたにはずっと恋人でいてほしいもの」
 にこやかに話す惟彰に、馨君は思わず軽い息をついた。何だ、上手くやっているんじゃないか。
 そりゃあ…私一人と言った所で、主上なれば妃と睦言を交わすのは当たり前のこと。それに主上には弘徽殿に子もいるではないか。思わずムッとした自分に苦笑して、馨君は目を伏せた。弘徽殿さまに子が生まれたことで芳姫と主上がギクシャクするのではないかと思っていたけど、そんなことはなさそうだな。
「弘徽殿さまのお加減はいかがでございますか。行忠どのからまだ優れぬと聞きましたので、お見舞いは控えさせていただいているのですが」
「ああ…あまりよくないようだ。できるだけ横になっているように言うのだが…産養いを内裏でなどと無理に呼び戻さぬ方がよかったかもしれぬ」
「そうですか…弘徽殿さまは歌もお好きであらせられるから、今度の歌合わせにはぜひおいでいただきたかったのですが、残念です」
 心配そうな表情で馨君が言うと、惟彰は目を細めてありがとうと答えた。本当に、早くお元気になられるといいのですけど。几帳の向こうでそう言った芳姫に頷くと、馨君はよいしょと足を崩して惟彰を見上げた。
「今、冬の君にも準備を手伝ってもらっている所です。主上にもぜひご覧になっていただきたい…父上を通さずに私たちだけで歌合わせを催すのは初めてのことですから」
「そうだね、あなたがまとめてくれるのなら素晴らしい催しになりそうだ。私はゆっくり見せていただくよ」
「桐壺さま(澪姫)や梨壺さま(四の姫)にもおいでいただくように伝えておりますので」
「そうか。最近は桐壺も父上の不快で塞いでおられたから、よい気晴らしになるだろう」
 惟彰が言うと、馨君はニコリと笑ってよろしくお願いいたしますと頭を下げた。その時、女房が衣擦れの音をさせて主上と声をかけた。いかがしたと惟彰が答えると、女房は春宮さまがお越しでございますと言った。
 ドキンと胸がうずいて馨君が顔を上げると、水良が幾人かの女房を従えて廂に入り、御簾が上げられているのを見てこれはと呟いた。
「身内の語らいを邪魔してしまったかな」
「春宮さまなら、私、実の弟とも思っておりましてよ。幼い頃は共に遊んだ仲ではありませんの」
 几帳の奥で笑いながら芳姫が言うと、水良は苦笑して廂の左側に作られた席に腰を下ろした。馨君が簀子へ下がろうとすると、惟彰が構わぬと言って視線を伏せた。
「そこにおいで、馨君。そなたが簀子に下がると、顔が見えぬ」
「私が下がった方がよかったですか、兄上」
 水良の声に、ドキッとして馨君は顔を上げた。何の気なしに言った一言だろうが…馨君がそっと水良の顔を盗み見ると、水良はにこやかに笑みを浮かべて言葉を続けた。
「兄上がこちらにおられると伺って、私も語らいに交ぜてもらおうと思って来たのですが、何か内緒話でもしておられましたか」
「そうだなあ、水良に秘密と言えば…」
「あるんですか?」
「楽しい秘密だ。そなたにはその日まで教えぬ」
 おかしそうに笑いながらそう言った惟彰に、水良は意地がお悪いなと答えて腕を組んだ。よかった、いつも通りの二人だ。目を伏せて馨君が小さく息をつくと、ふいに芳姫が、こうしていると昔に戻ったようですわねと呟いた。
 一瞬…懐かしい風が吹いた。
 みなが揃ったことはほとんどなかったけれど…いつも誰かがそばにいてくれた。お互いそんなことを感じているのかもしれない。頬を赤く染めて俯いた馨君に、水良が目を細めた。本当だな、子供の頃のようだ。そう言った水良へ。
 惟彰が視線を向け、それから馨君をジッと見つめた。
 それも一瞬で、すぐに目をそらすと惟彰は笑った。また子供の頃のように、三条邸で花を見たいものだ。そう言った惟彰に馨君は顔を上げて、主上や春宮さまにもまた三条邸へお越しいただきたく思いますと答えた。

 
(c)渡辺キリ