玻璃の器
 

 二月になると桜の花が咲く頃に合わせて、藤壺で大歌合わせが行われた。
 主上や左大臣兼長を初めとする公卿たちも招いて、右方と左方に分かれて互いに歌を読み交わし、判者が優れた歌を選んでいく。歌を読む講師(こうじ)には右方に声のいい時の右近中将が選ばれており、左方の歌の取りを和歌上手で有名な源三篤が務めていた。
 準備を進めた馨君と冬の君は当日は表に出ず、主催は芳姫となっていた。今日のために設えた藤壺の名に違わぬきらびやかな調度と、左は紅、右は青に揃えた女房や女童たちの衣装も艶やかで美しく、 さざめく殿上人たちの笑い声も心地よかった。左方の州浜(すはま)は特に出来がよく、梅の枝にとまった鶯はまるで今にも涼やかな声で鳴き出しそうなほどだった。
 惟彰も御簾内から観覧する中、歌は順々と読み進められていった。勝った方の歌い手は禄を賜り、負けた方の講師は罰杯を賜る。歌が終わるまで気の抜けなかった馨君は、長々と続いた和歌が最後まで読み上げられ、ようやくホッと息をついて笑みを浮かべた。
 歌合わせの後の宴が始まると、蛍宮や楽人たちを招いての雅楽も場を和ませた。酒も入ってどこからか催馬楽が聞こえてくると、馨君は冬の君と共に惟彰の元を訪れて平伏した。
「誠によい歌合わせだった。我が世となって初めてこのような大掛かりな歌合わせを催すことができて、皆も喜んでおる。ご苦労だったな」
「いえ、私どもはお手伝いさせていただいただけで…すべて藤壺さまのご配慮にございますゆえ」
「その藤壺が一番、喜んでいるよ。馨君、冬の君、本当にありがとう」
 御帳台から声をかけると、惟彰は肩の力を抜いて宴を楽しむがよいと付け加えた。二人はもう一度深く平伏してから、惟彰の元を辞した。酔いつぶれない内にと続いてそばにいた左右大臣の所へ挨拶に向かうと、兼長は右大臣と語らいながら、馨君たちの姿を見て満面の笑みを浮かべた。
「二人ともよくやってくれた。右大臣どのからも褒めていただいていた所だ。さあ、こちらへ」
 馨君と冬の君が失礼いたしますと言って兼長の前に膝をつくと、兼長は二人に杯を渡して女房に酒をつがせた。右大臣の孫娘を娶った冬の君は、右大臣とは舅と婿という間柄で、すでに打ち解けて和やかに話せるようになっていた。その隣で柔らかな笑みを浮かべると、馨君はふと水良の姿が見えないことに気づいてチラチラと視線を走らせた。
「左方の勝ちを決めた三篤どのの歌の、誠に見事であったこと。勝負も白熱して、本当によい歌合わせであった。中将どの、よくぞここまで壮麗な歌合わせを催されたことだ」
 ニコニコと笑いながら言った右大臣に、馨君は慎ましやかにいえ…と答えて右大臣の杯に酒をついだ。主上のお気に入りとの呼び声も高いが、なるほど頷ける。そう言葉を続けて、右大臣も返杯と提子を馨君に差し出した。
「弘徽殿さまにも皇子が生まれ、このように得難い歌合わせも見せていただいて、新年早々、私にとっては嬉しいことばかり。中将どのは蛍宮さまの女一の宮さまを娶られたとのことだが…私の所にも、琴の琴を天人ともまごうような音色に奏でる孫娘がおりまする。どうぞ一度、中将どのの笛と合わせたいと申しておりますよ」
「そうですか、ありがとうございます。笛はまだまだ二の君には及びませんが、いずれお会いしたいものですね」
 目を伏せて馨君が答えると、右大臣はお約束しましたよと言って杯を傾けた。冬の君とまた話し始めた右大臣のそばをそっと離れると、馨君は兼長の隣に膝をついて尋ねた。
「父上、先ほどから春宮さまの姿が見えぬようですが…いずこへ行かれたかご存じですか」
「春宮さま? さあ…三篤どのの歌が読み上げられていた時にはまだおられたが」
「宴の前に梨壺へ戻られたのでしょうか。あまりお強くないようなので」
 心配げに言った馨君を見ると、兼長は大きなお腹をさすりながら、されば少し梨壺へ様子を見に行かせようと答えて女房を呼んだ。春宮さまがお休みかどうか、梨壺へ見に行っておくれ。兼長がそう言うと、馨君は立ち上がった。
「やはり私が見に行きます。すぐに戻りますゆえ」
 そう言ってニコリと笑うと、馨君はサッと袖を翻して早足で梨壺に向かって歩き出した。全く、春宮さまのこととなったら気が急くのだな。苦笑いして杯を傾けると、兼長は呼んだ女房に空になった瓶子を渡して代わりを持ってくるように頼んだ。
 梨壺は既に格子が下がっていて、もう休んでいるんだろうかと馨君は手前の渡殿で立ち止まった。
 しまったな、女房を連れてきて先触れをさせるのだった。妻戸を叩いて不審に思われないだろうか…。少し考えて、それからいつも酒を飲むたびに顔色が悪くなる水良を思い出すと、馨君は思いきって梨壺に近づいた。途中、近衛の宿直とすれ違った。もう遅いし、お休みなのだろうな。
 そう思いながらも、足は止まらなかった。会いたいだけじゃないのか? 自分で考えて苦笑すると、馨君はほとほとと妻戸を叩いて声をかけた。
「女房どの、私は左近中将だ。春宮さまのお姿が見えないので、心配で見に来たのだが」
 馨君が言うと、しばらくして妻戸がわずかに開き、朝顔が顔を出した。今宵の宿直はそなたか。馨君が微笑んで尋ねると、闇夜に微妙な表情を浮かべて朝顔は答えた。
「はい。春宮さまは先ほどお戻りになられて、何だか匂いに酔ったと仰られて今床に入られたばかりでございます」
「そうか…大丈夫なのか?」
「ええ、もうお眠りになっておられますから」
 朝顔の声はいつもよりもどこか頑だった。怪訝そうに眉を寄せて馨君が朝顔を見ると、朝顔の後ろから水良の声が響いた。
「誰かいるのか。朝顔?」
 ドキッとして馨君が息を呑むと、朝顔が少々お待ち下さりませと言って妻戸を閉じた。中で俺が来たことを告げているのだろうか。そう考えると、他意はなくてもとてつもなく恥ずかしいことをしてしまったような気がして、馨君は身を縮めた。
「どうぞお入り下さいませ」
 再び妻戸が開いて、朝顔が平伏した。いえ、お休みならもういいのです。慌ててそう言うと、馨君は首筋まで真っ赤になった。
「ひょっとして酒を飲んでらしたので、ご不快ではと思っただけで…もう藤壺へ戻ります」
 水良に聞こえるように声を張り上げ、馨君は頭を下げてくるりと踵を返した。朝顔が顔を上げ、引き止めようとしてグッととどめた。その時、後ろから水良が朝顔を跨ぐように出てきて、単衣姿のまま馨君に追いつきその手をつかんだ。
「いいから入れ。梨壺へ戻って来たが、寝つけずにいたんだ」
「しかし…このような時刻に」
「構わぬ」
 そう言って馨君を引っ張ると、水良は朝顔に下がるよう言いつけて妻戸から中へ入った。朝顔が外に出て妻戸を閉めるのが視界の端に映った。馨君が赤い顔のまま水良を見上げると、水良はつかんでいた手を離してそのまま馨君を抱きしめた。
「や…おやめ下さりませ! 私はそんなつもりで…」
 驚いて馨君が水良を押し返そうとすると、水良はそれを遮って馨君の頬に自分の頬を押しつけた。そこを唇で優しく吸うと、水良の温かさに馨君は身じろぎをした。勢いづいた水良が馨君の首筋に唇を押し当てながら懐に手を入れると、馨君は呆然とされるままになって目の前の水良の顔を見つめた。
 久しぶりだ、こんな風にされるのは。
 いつぶりだろう…水良の手で直衣を脱がされるのは。いつも水良は待ちきれずに、こんな風に口づけながら俺の身の鎧を剥いでいく。それが心地よかった。水良の気持ちが分かるような気がして。抵抗することも忘れて馨君が水良の手を眺めていると、水良は馨君の体を抱いてそこに寝かせ、床の上でそのまま体に覆いかぶさった。
「お前が来ればいいと思ってた」
「え?」
 かすれた声で馨君が尋ね返すと、水良は馨君の唇を吸うように唇で触れてから言葉を続けた。
「歌合わせの間中、ずっとお前が俺を追って来てくれたらいいと思ってた。宴が始まってから、兄上の所望で一差し舞っただろう。いつものことのはずなのに、あのような姿を他の者の前に晒すなんてって…苦しかった。馨君、俺はもう駄目だよ」
「水良」
「もう駄目だ。愛してる。愛しているんだ…お前と共にいたいのに、なぜそれだけが叶わないんだ。たまらないよ…お前を見るたびに、心がかき乱される」
 言葉が口をついて出た。前をはだけて水良が胸元を吸うと、馨君はクッと眉を寄せて体を強張らせた。快感でかえって我を取り戻した。こんなこと、許されるはずがない。春宮となった水良と、契りを交わすなど。
「…っ!」
 逃げようとして、後ろから抱きかかえられて馨君は床に手をついた。お願いだからやめてくれ。動かない体の代わりに、絞り出すような声で拒んだ。それが互いのため…禁中でこんなこと、誰かに知られたら身の破滅だ。水良の手を必死で払いのけようとして、馨君は自分の腰を片手で抱えた水良の手首を強くつかんだ。
「今宵だけとお思いでも、会えば思いを交わさずにいられなくなります。お願いだから…おやめ下さりませ! 春宮さま!」
 振り絞るように叫んだ馨君に、水良が一瞬手を止めた。その隙に床に手をついて立ち上がると、馨君は振り向きもせずにバタバタと足音をたてて妻戸から外へ出て行った。馨君! 愛しい水良の声が追いかけた。思いごとそれを振り切るように、馨君ははだけた胸元をつかんだままその場を離れた。

 
(c)渡辺キリ