玻璃の器
 

 検非違使と共に柾目が都へ戻って来たのは、それから幾日かたってからのことだった。
 式部卿宮という立場を考慮され、馬ではなく牛車で大和から京へ送られた。柾目を乗せる牛車が都へ入ると、弘徽殿の皇子をさらった罪人だと知った都人の群れが、悲鳴と共に口々に怒鳴り声を上げた。狂騒の中、牛車はまるで見せ物のようにゆるゆると都大路を進んで、日が暮れかけた頃にようやく宮中に入った。検非違使に連れられて柾目がやつれた姿のまま紫宸殿の南庭へ引き立てられると、惟彰は立ち上がって一歩踏み出した。
 扇を持つ手が震えていた。
「柾目…」
 ただ名を呟いて、後は言葉にならずに唇を噛み締めた。顔色は蒼白だった。伏せていた視線を上げて柾目が殿上の惟彰を見上げると、惟彰は扇を握りしめて尋ねた。
「そなた、なぜ私の皇子をさらったのだ」
 語尾が震えて、声がかすれた。
 何を言われているのか分からないとでも言うように、ただ柾目は口を閉ざしていた。
「行忠、皇子は連れ帰ったのだろうな」
 黙っている柾目を見て埒があかないと思ったのか、惟彰は廂に控えていた行忠に視線を向けた。行忠は検非違使を統括していた。惟彰の言葉にバッとその場に平伏すると、行忠は絞り出すように答えた。
「申し訳ござりませぬ! この者が預けたという乳飲み子を持った女が、そのまま皇子を連れ去り行方をくらましたと…」
「…バカな…バカな! そなた、誰の子だと思っておる! 犬や猫の子と思っておるのか!」
 惟彰から今にも殴られそうなほどの叱責を受け、行忠は更に頭を下げてくうっと言葉を絞った。
 寺に出入りしていた女は、子を生んだばかりで乳が出るものの、自分の子を死なせてしまい寺に供養に訪れていた。その時は誰も赤子が弘徽殿の皇子とは知らず、女と赤子を二人にしてしまった。
 女が赤子と共に姿をくらましたことに気づいたのは、小坊主が永楽から赤子を連れてくるようにと言われた時だった。
 赤子がいなくなったと知った柾目は、一瞬、目を見開き…そして笑った。うっすらと笑みを浮かべて、それからまるで沼に沈み込むように黙り込み表情をなくした。後ろ手に縛られてそのまま牛車に乗せられ、紫宸殿の南庭へ連れてこられても、黙ったまま空ろな目をしていた。
「申し訳ござりませぬ…女と赤子の行方は、続けて検非違使たちが追っております。必ずや、必ずや見つけますので」
 行忠の声を聞きながら、惟彰はガクリとその場に崩れ落ちた。主上! そばに控えていた馨君と女房たちが同時に腰を浮かした。馨君に支えられてその手をつかむと、大丈夫だと言って惟彰は柾目をにらみつけた。
「柾目…二度とそなたの顔を見とうない! 下がれ!」
 割れんばかりの声で怒鳴りつけると、惟彰はぐううっと喉から声をもらして馨君の肩に自分のこめかみを押しつけた。縛られたまま南庭にひざまづいていた柾目は、ただ深く頭を下げて大きく息を吐き出した。柾目が引き連れられてそこから姿を消しても、惟彰は黙ったまま馨君の体にもたれて歯を食いしばり続けた。

 
(c)渡辺キリ