静かな枯山水の庭を母屋から眺められるよう、御簾が巻き上げられていた。
しかし、中で物音一つたてずにいる男は、眠っていてそれすら気づいていなかった。男が大和にある寺に辿り着いたのは、夕べ遅くになってからのことだった。馬から落ちるように降りて、小坊主に抱いていた赤子を渡すと、男はそのまま崩れるように果てた。
何の音も聞こえない。
日差しがゆっくりと動いて、影もそれに合わせてゆっくりと長くなっていった。申の刻を告げる鐘が鳴り響くと同時に、簀子を衣擦れがさやさやと動いて母屋の前で止まった。
「…目が覚めぬか」
一人の僧がかけた静かな声に、眠っていた男がゆっくりと目を開いた。男がふっと頭をもたげると、僧は中へ入って男の体を支えた。義蔵か。かすれた声で呟いた男に、僧は大声で小坊主を呼んだ。
「誰か! 白湯を持って来てくれ! それと食べる物を!」
「…構わぬ。それより赤子は」
力のない手で僧の手をつかむと、男はその涼やかな目で僧を見上げた。
「今は山の麓の女から乳をもらっておる。そなた…あれはそなたの子か。京からずっと飲まず食わずだったのだろう。死にかけておったぞ」
「…! 今は!? 大丈夫なのか!」
常人とは思えない強い力で僧の手をつかむと、僧は眉をひそめ、大丈夫だと答えた。男が大きく息を吐くと、小坊主がやってきて白湯と飯を運んだ。
「ありがとう。しばらく下がっておれ」
「かしこまりました」
そう言って頭を下げると、小坊主は静かにまた戻って行った。男の体を支えて白湯の杯を口元に押し付けると、まずは飲めと言って僧は杯を傾けた。
「…はあ」
わずかな白湯を飲み干すと、男は僧の腕にもたれて息をついた。片手でまた白湯を杯についで僧は男の口元へ白湯を運んだ。
「義蔵、見たか」
男が言うと、僧は眉を寄せた。
「…今はもう義蔵ではない。右大弁でもない…永楽と呼ばれている。柾目」
「永楽か…よい名だな」
「見たとは、あの赤子のことか。あれはお前の子か」
永楽が尋ねると、柾目は寝かせてくれと頼んだ。そっと柾目を床に横たわらせると、永楽は枕元にあぐらを組んで座った。
何があったのだ、柾目。
…ここは都からは遠い。そなたが話してくれねば…何も分からぬ。うっすらと笑みを浮かべて自分を見上げる柾目を見ると、永楽はもう一度尋ねた。
「柾目、あの子はお前の子か」
「ああ、私の子だ…ただ一人の、私の子」
まるで夢でも見ているかのように、ふわふわとした話し方だった。永楽が怪訝そうに眉をひそめると、柾目は寝返りを打って仰向けになり、息をついた。
「可愛いだろう。そなたに見せてやらねばと、はるばる連れて来たのだ」
「なぜ。あれは一の姫との一の君か?」
「違う。母は濃姫…弘徽殿だ」
柾目の言葉に、永楽は目を見開いた。
「弘徽殿…! それでは不義の子か!」
「…そうだ。いや、違う。違うよ…」
ゆっくりと目を閉じると、柾目は細い手を伸ばして永楽の膝に力なく乗せた。永楽がその手を握ると、柾目は今にも眠ってしまいそうなほどゆったりとした口調で言った。
「白梅院が約束したのだ。水良を主上の座につければ、私を皇子として公にし、次代の東宮は私にしようと。もう…十年以上も前のことなのだな。当の白梅院も忘れている話だ」
「柾目、そなた…」
「別に主上になりたかった訳ではない。ただ…誰にも見下げられぬ立場に就きたかっただけだ。義蔵、あの子は我が子、愛しい子だが…主上の元にいれば私は父として名乗り出ることはできぬ。たとえ私が白梅院の力で東宮となったとしても」
「待て、柾目。白梅院さまは…ご不快があられたと伝わっておる。あれはただの噂なのか」
永楽が尋ねると、柾目は何を言っているのか分からないと言いたげな目で永楽を見上げた。その目を見て、永楽は背筋にゾクリと冷気が這い上がるのを感じた。柾目…正気か。永楽がギュッと柾目の手を握りしめると、柾目は楽しそうに笑ってまた言葉を続けた。
「だから、ひとまずこちらへ皇子を引き取ってもらえぬかと思ってな。都に置けば、何かとうるさかろう。それに…そなたは私の子を見たいだろうと思って」
「柾目…それはいかん」
「ただ一時でよいのだ。その間に私は都へ戻り、惟彰が退位するよう根回しを進めよう。水良さえ主上となれば、私も晴れて東宮の座に就くことができる。なあ、永楽…そなたが都へ戻りたければ、戻してやってもよいぞ。三の姫はすでに水良と上手くやっているようだからな」
あははと乾いた声を上げて笑うと、柾目は永楽から手を離した。その端正な顔を覗き込むと、永楽は低い声で呟いた。
「柾目…すでに行忠邸に使いをやっておる」
柾目が視線を永楽へ向けると、永楽は身を乗り出して柾目を見つめた。
「明日になるだろうが、恐らく行忠どのの元からそなたを迎えに人が来よう。私の居所を知られとうはなかったが…すでに春宮さまも私がここにいることはご存じだ」
「義蔵?」
「私は都には戻らぬ。戻った所で…二度とあの頃のような気持ちには戻れんだろう。三の姫も幸せに暮らしているのならそれでよい。私は、私は初めこそそなたを恨んでおったが」
「…義蔵」
「初めこそ、そなたを恨んでおったが、今は感謝しているほどなのだ。あのまま三の姫を奪った所で、わだかまりがいずれは首をもたげよう…。私は出家して後、いかに自分が愚かだったか分かったのだ。そなたを…そなたすら、救ってやることはできなんだ」
「誰が救ってくれと頼んだ」
「そうだな…そうだが」
ただ柾目の細い手を握りしめると、永楽は目を伏せた。その手のぬくもりを感じながら目を閉じると、柾目の目尻からスッと透明な筋が頬へ流れた。私は東宮になりたかった訳ではないのだ。聞こえないほど小さな声で呟くと、柾目は顔を背けて永楽から手を離した。
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